自分を責めすぎるのは、自惚れと贖罪のため

この本を読んだ。この著者の本は他にも読んだことがある。基本的にはこの人の仮説は、農耕の発明以前旧石器時代に培われた脳の機能の影響が今も色濃く残っていて、それがここ数千年で急速に発達した社会に対応できないことがあるために心が折れることがあるんだよ、みたいな感じ。石持ってウホウホ言いながらそこら辺に落ちてるドングリとか虫食べてたまに熊とか猛獣に襲われたりしていた時代が長く続き、その間にその猛獣に襲われた時とか食べ物が十分にあるか分からん時代に備わった危機管理能力が今の社会でも過剰に出てしまうアンバランスさが問題になっているというのが根底にある。で、それをある程度踏まえたうえでどういうテクニックなり心の持ちようでのり切ろうか、というのが本に書いてある。その仮説が本当かどうかは分からないけど、説得力はある。

で、この本読んでてウッと思ったのが、自責傾向にある人の心の中を言ってる部分。この人に言わせると、自分の責任だと考えるのは究極のポジティブシンキングとのこと。どういうことかと言うと、人は自分の責任だと思えば、何かしら行動を起こして事態の収束に当たろうとする。またはそう出来るようなことを考える。つまりそれは自分が何か行動を起こすことで、事態を変える可能性が大いにあると考えているからだ、ということ。なるほどと思った。地震が起こって、自分のせいだ…と思う人はいない。アメリカの地震発生装置が起こしたんだ!みたいな陰謀論を唱える人は、旧石器時代からかなり違うベクトルへ進化した人たちなので、この仮説にはあてはまらないだろうけど、何にしても、そういう天災の類それ自体に自分の責任を感じる人はいない。自分じゃどうしようも出来ないのはわかりきっている。地震とかは極端かもしれないけど、そのスケールを段々小さくしていって、あの仕事がうまくいかなかったのは…みたいに考える人は多い。自分もそういう考え方をしてしまう。自分があの時ああしておけば…みたいなことを考えてもしょうがないし、実際そうしてて万事うまく行ったのかどうか、そのifは分からない。そもそも自分にその時何かしらのスキルがあれば乗り切れたのか、それ自体がよくよく考えると疑わしいところがある。

何かが失敗したとして、その失敗したものの関係者のうち、ある人間だけに100%責任があり、他の人間は0%ということはない。10:0の割合でどうにかなることなんて世の中殆ど無いと思う。誰もが責任の一翼を担っている。それを、自分の行動によって変えることができたんだと思い込む傾向がある人は、万能感がありすぎるというか自惚れているのかもしれない、なんて思った。責任の一翼は担っているがゆえに不安や罪悪感が生まれる。それらから逃れたいがために、それらをある程度背負いながらも生きていくこと自体に罪悪感を感じるため、その一種の贖罪として自責に陥るのかもしれない。

生きてる上で自分がどう動いたってどうしようもないものは沢山ある。自分の一切の責任を認めないのもどうかと思うが、ある程度の罪悪感や不安を抱える覚悟をしながら、そのうえで自分の行動とか責任範囲はどれくらいなんだと線引していかないといけない。難しい。

個性的じゃないとどうなるのか?

一昔前は個性個性言われてたけど、最近はとんと聞かなくなった。単純にそういうのを聞かないようにしてるだけなのかもしれない。単純にインプットの量が少なくなっただけだからなのかもしれないけど。

なんにしても、脅迫的なくらいに個性を持てと言われていた時があった。で、実際みんな個性的になったんだろうか。自分はどうだろうか。無職って個性的なのか。多分違う。いや、絶対違う。自分じゃなくても、働いてる人でもお世辞にもそう物凄く目立つって感じじゃない人はたくさんいる。世の中の多くの人は、それらの人がイメージするような奇抜なことをしてメチャクチャに目立ったり物凄く外見が良かったりするわけでもない、つまり個性的でない人だと思う。

結局多くの人が無個性になってどうなったんだろうか。無個性だとどうなるのか?死ぬのか?いや、死んではいない。職につけないのか?いや、そうでもなさそう。むしろ普通の企業ならマニュアル化を推し進めるだろうし、それは無個性化を推し進めているのと同じじゃないか。職につけないわけでもない。友だちがいて恋人がいて結婚して子供がいたりしてなんて人は多くいる。

じゃあなんだったんだ?個性ってなんだったんだ?それを獲得しないと、何が失われると思われていたのか?なんだかよく分からない。

「どんな人間にも取り柄はある」という幻想

最後に褒められたのはいつだったろうか、と考えてみてもあまり思い出せない。あまりというかほぼ思い出せない。ほぼというか全く思い出せない。今まで生きてきて褒められなかった訳じゃないはずなのに。1つだけ思い出せるのは中学校の時のこと。家庭科の調理実習で、「ホットケーキ裏っ返すのうまいね!」と言われたことくらい。「ホットケーキを裏っ返す職人になればいいじゃん!」みたいなことを言われたのも覚えている。無職の身としては、そんな職業あったら今すぐ応募したい。いや、やっぱりしたくない。ホットケーキを裏っ返す瞬間にのみ能力を発揮してもらうべくそのポストを用意するなんて、その瞬間に相当なプレッシャーがかかるだろう。世界中のセレブたちが集まる中でエンターテイメントパフォーマンスとしてホットケーキを裏っ返す、みたいなことをしないとそれだけでは食っていけないだろう。まぁ何にしても、自分で覚えている「褒められたこと」なんてそれくらいだ。

「どんな人間にも取り柄はある」みたいな言説が嫌いだ。嫌いというか怖い。だって、裏を返せば「本当に何も取り柄の無いやつは人間じゃない」ということだろう。自分の取り柄とか長所なんて、全く思いつかない。取り柄って何なんだろう。「どんな人間にも取り柄はある」という言葉の奥にあるのは、誰だって長所があれば短所もあるよということなんだろうが、長所が思いつかない。となると、じゃあ自分は一体…みたいな気分になる。長所も短所も表裏一体。例えば自己中心的な奴はものすごく良い感じに言い換えれば「億すことなく自分のスタンスを明確に誇示できる人」となる。どちらも嘘ではないし真実をいくらか含んでいる。それがどの程度「長所足り得る」か、その長所を取り柄として扱えるかはわからないけど。自分は短所がたくさんある。書き出してテキストファイルにしたらdropboxの容量いっぱいになるくらいにある。が、それらを良い感じに言い換えることができても、それが長所足り得るくらいに受け入れられるものなのだろうか、取り柄として言えるかと思うと、ノーだ。

自分で見つけることは出来なくても、褒められることを通して何かしら自分のいいところを発見できたのではないかとも思うが、やっぱりあまり褒められたことを思い出せない。どうにかひねくりだして、ああ、そういえばあの仕事の時こう褒められたのは思い出せるな…ということはいくつかあるけども、ただそれが本当に自分の取り柄となりうるのかと思うと疑問だ。自分としてはそう価値のあるとも思えないことを褒められたという感じがあるので、リップサービスだったんじゃないかと疑わしい。それが褒めた側の人間から見て褒めるべき事実に見えていたのだとしても、自分にはそうは見えない。外的評価と内的評価が一切噛み合ってない。そう考えると、唯一それがある程度噛みあうというかそれを受け入れられたのがホットケーキを裏っ返せることだったんじゃないかと思う。ただ、他の人達が自分の取り柄は○○の資格を持っていてその資格と☓☓の知識を組み合わせて活かせることです、みたいなことを言う横で、「自分の取り柄はホットケーキをうまく裏っ返せることであります!」とか言ってたらイタさ大爆発だ。言い訳にしてもなんかもっとマシなのあるだろ…。

じゃあ自分が好きなことを取り柄として設定してしまえばいいじゃんというのも、またそれはそれで問題がありそうな気がする。取り柄であるということは、それがそれなりのレベルに達していて欲しいというのが他の人からの願いであろう。人間関係においてそれが元で齟齬が発生したりしそうな気がする。単語とかよく分からないけどアルファベット全部言えるしなんかアルファベットの形が好きだから英語が取り柄です!とか言っても、周りは「ああ、ある程度英語の読み書き出来るんだな」と受け取られたら、その後に悲劇が起こることは想像に難くない。外的評価と内的評価が合致することなんて絶対ないけど、ある程度同じくらいの水準でないとそれはやっぱり取り柄足り得ないんじゃないか。

トリビアの泉というテレビ番組があった。しょうもないムダ知識を紹介していく番組。アラサー以上の人は見たことあると思う。自分もあの番組が好きでよく見ていた。毎週のように見ていたのに、その知識は殆ど覚えていない。が、1つだけ明確に覚えているものがある。ナンバーワンとオンリーワン、どっちのほうがいいのか、というのを検証するという企画。検証といっても、当時流行った「世界に一つだけの花」の作詞をした槇原敬之に、正直どっちのが良いですか?と聞くだけだったけど。ご存知「世界に一つだけの花」はみんな違ってみんな良い、ナンバーワンという考え方もあるけど、オンリーワンという考え方もあるよ、個性が大事だよというような事が歌詞に乗せられている。で、当の槇原敬之はその質問をぶつけられて1時間以上悩んだ挙句「ナンバーワンのほうがいいですね」と答えた。それを見てスタジオ大爆笑。見ている自分は1ミリたりとも笑えなかった。何が面白いのか、どこが笑えるポイントなのか全くわからなかった。個性とかオンリーワンなんて言葉が持て囃されてそれらを持てなんて誰もが言ってた時だった。別にその答えが個性を否定してるわけでもないけど、そりゃやっぱ一番であるほうがイイよねという答えに「やっぱそうだよね…」という感想しか持っていなかった。

「2位じゃダメなんでしょうか?」という一発ギャグがある。いや、ギャグじゃないけど。いや、あの状況だとギャグと捉えられてもまぁ間違いとは断定できないけど。まぁそんな言葉というか有名な質問がある。これはコンテクストを変えれば有用にも思える。結局、自分の理想が高すぎるから自分を受け入れられないんじゃないか。ほぼ確実に、自分は何においても一番にはなれない。ギネスレコードのわけわかんないチャレンジみたいなものなら一番になれるかもしれないけど、それに価値を見いだせない。そもそも一番とは、どこで一番なのか。世界だったら絶対に無理だ。日本全体でなのか、会社や学校でなのか、クラスやその部署で一番なのか、家族の中で一番なのか。抽象的で曖昧だ。抽象的に曖昧にナンバーワンが良いよねと思っていた自分は、どこに行ってもナンバーワンにはなれないだろう。上には上がいる。家族で一番になっても、部署で一番になっても、より大きな規模になればその上がいることは容易に想像できる。そんな理想の立て方に意味が無い。槇原敬之の答えを笑えなかった自分は、そういう現実との折り合いを付けられなかったから笑えなかったのではないだろうかとも思う。そして、なぜ一番というか順位に変にこだわろうとするのか、そのこだわりが理想に対する思い込みを生み出して、長所も見いだせず、人からのお褒めも受け止められなくなったのではないかと思い始めたりした。どう現実と折り合いをつけるか、どう自分の価値を自分で見いだせるかが取り柄を作れるかの鍵になるんじゃないかと。

とか考えながらGooglePlayミュージックをシャッフルしながら聞いてたら、こんな歌詞の曲が流れてきた。

素敵なあなたを讃えます 私には取り柄なんてないですので

椎名林檎の「モルヒネ」。あんたとんでもない取り柄持ってるやんけ。一生食うに困らないレベルのとんでもない取り柄持ってるやんけ。あんたのその音楽の才能が取り柄に入らなかったら、世界の多くの人間はどういう位置づけになるのか。というか椎名林檎をもってしてここまで言わせる「あなた」はどんな化物だよ。やっぱり自分はド田舎の中学校の小さなクラスで最もホットケーキを裏っ返すことが出来るくらいに思っているだけで十分な気がしてきた。取り柄なんて、クソ喰らえ。

今日の一針、明日の十針

ということわざがあることを知った。意味は

今日なら一針縫えば済むほころびも、明日には大きくなって十針も縫わなければならなくなる。わずかの労を惜しむと後で大変になるというたとえ。 『今日の一針明日の十針(きょうのひとはりあすのとはり)』の意味と定義(全文) - 辞書辞典無料検索JLogos

最近また精神面を強くする的な本を読んでるけど、結局はどれも時間のかかる面倒な回り道をしなければ、強いメンタルの得られる考え方は出来るようにならないんだなぁというのを強く感じる。逆に今までダメな選択ばかりしてきた結果、今一億針くらい縫わなきゃいけないようなことになってるんだろうなぁとも思う。何もしないという一種の選択ばかりをし続けてきたからかもしれない。まぁ今更何が一億針も縫わせる原因となったのか分かったところでどうしようもないので、これからちまちまチクチクと縫い続けなければならないんだろうなと感じる。

去年末くらいまでは朝食後と昼食後に腹ごなしがてら散歩をしていた。が、最近はしなくなった。単純に1月は寒かったし雪もメチャクチャ降ったし道路が凍ってコケるし…と思ってからの事だったのだけれど、今になって果たしてそれは本当の理由だったのかと思う。理由としてはあるんだけども、無意識的に別の理由を自分自身に隠すための、自分自身への言い訳みたいなもんじゃないかと思う。いい歳した人間がジャージ来て真っ昼間にプラプラ歩いてたら変な目で見られるようなところに住んでいるのだ。別に悪い事してる訳じゃないから別にプラプラしててもいいだろとも言えるけど、実際は言えない。なんだか物凄く変な目で見られているような気がしてならない。他に散歩してる人がいるのを見ると何か変な目で見られるんじゃないかと思ってドキッとするし、向こうから車が来ても、車のドライバーに変な目で見られるんじゃないかと思って顔を伏せてしまう。それが散歩をしなくなった本当の理由なんじゃないかと考え始めた。寒いとかなんだとかってのは言い訳で、実際は自意識過剰過ぎるのと、散歩の度にそういうこと考えて脂汗かくのが嫌なんじゃないかと。そしてこれが明日更に九針も縫うハメになる原因じゃないかとも思う。

自分では毎日定時に寝起きして、ちゃんと1日から数日分の作業量の見積もり立てたうえで何か作業をする、というのを心がけていたんだけど、何だか最近になって上手くいかなくなってきた。いくらか時間は経って去年の今よりも多少は良くなってはいるものの、ここ数ヶ月は三歩進んで三歩さがるみたいな感じになっている。なんでだろうと考えてみたけど、お医者さんの世話になってる現状から社会復帰しようと考えた時に、自分の考えていた「社会復帰に向けてその日1日で出来ること」の粒度、つまり今日の一針の粒度が大きかったんじゃないかなと思う。冷静に考えて、散歩もロクにできないような人間が働いてる人間と同じように1日9時間集中して作業するっていうのは何か無理がある感じがする。もちろん出来る日もそこそこあるんだけれども、それより先に散歩ちゃんと出来るようにしたほうが良くない?とも思う。1日9時間働けるけど、外に出られませんじゃ危うさを感じる。1日どれくらい作業するのも散歩するのも同時進行出来るものだから、両方やればいいのだろうけど。ただ、三歩進んで三歩下がってるのは、1日にこなせる作業量は増えたものの、散歩できなくなるくらい自意識過剰っぷりが進行してるという感じなんじゃないか。その自意識過剰っぷりが綻びを生み出して九針プラスで縫わなきゃならないようにしているんじゃないか。今の自分にとっての一針は、散歩できるようにするとかそんなレベルなんじゃないだろうか。

自信は成功体験がキモになる。1回の成功体験じゃ自信持てないなら何度でも成功すればいい。で、それによって出来た小さな自信を次の少し大きなチャレンジに使って、更にそれを成功させることで自信をつけて…というステップを踏まなきゃいけない。自分にとっての今できる最低限のステップはちゃんとやり続けてモノにしなきゃ、そこが綻びになり始めるんだろう。

いつになったら前に進むんだろうか…と思って自分自身にうんざりしながらもやらなきゃどうにもならんので、明日も渋々変な顔をされながら散歩に出る。

歳をとるという悲しさ

作業していて疲れてくるとすぐ眠くなる。眠い状態だと作業をやる気もしなくなるので、適度に休憩を取ることにしている。でもその休憩の中でアニメ見たりとか受動的な行動をしていても眠気はひかないし、ヘタすると更に眠くなったりする。なので休憩は短時間で区切りがついて能動的な行動ができるものがいいなぁと考えた。で、能動的な行動で眠気を吹き飛ばすもので何が良いだろうと考えた結果、ゲームが良いんじゃないかと思った。ストラテジーゲームよりも瞬発力が求められるようなアクションゲーム。PCのアクションゲームは起動させるのを待つのがかったるいから良いもんないかと思ったら、前に買ってちょっとだけ遊んだ3DSを思い出した。で、3DSで簡単にできそうなのを探したらマリオブラザーズ3を見つけた。これなら適度に眠気を吹き飛ばして、1面クリアごとに作業復帰と、休憩の単位もとりやすいので我ながらいいアイデアだと思った。

で、早速やってみたけど、まず1-1がクリアできない。二十年くらい前、何度もトライしては速攻でクリア出来ていた1-1が全然クリアできない。どこにキノコがあってどこにノコノコがいて…みたいな情報は全部記憶しているのに、ぜんっっっっっっっっっぜんクリアできない。なんか、マリオが全く思った通りに動かない。このタイミングで敵が出てくるからとか、このタイミングでキノコを取りに行けば、みたいなのも覚えているんだけど、マリオが全く昔のように動かない。全然タイミングが合わずに穴に落ちたり敵に当たったりする。なんでだ。結局1-1だけでクリアするのに1時間以上かかってしまった。

なんでなんだろうかと考えてみた。なんでこんなにマリオが思ったように動かないのか。色々考えてみたけど、やっぱ老化現象なんだろうな、と思った。歳をとるにつれて階段を上がるのがきつくなったり、ちょっと走っただけで息が上がってしまったり、瞬発力が落ちたり、筋肉痛が全然治らなかったり…そういう能力的な衰えというのは、生き物としてしょうがないのだろう。かつて当たり前のように出来ていたことが出来なくなる、というのは物凄くショックだ。

「生老病死」という言葉がある。仏教において人が免れることのできない四つの苦しみだ。この言葉、最初は「生」から始まって「死」で終わっているので、楽な順番に並んでいるのだと思っていた。「生」、つまり生きることは四つの苦しみの中でも楽な方で、老いるのが二番目に、病が三番目に苦しく、そして「死」が一番苦しいと位置づけられているのだと思っていたが、実際は逆らしい。「死」が一番楽なほうで、生きることが一番苦しいというのだ。そして「老」。「老いる」ということは苦しさの上では高ランクらしい。

見た目的には老けているように見えないのだけれども、実際は老いはもう始まっている。次第に、それまで出来てことが出来なくなっていくのかと気付き、それを目のあたりにするというのは、辛いことだ。病気は治らないものもあるが、治ることのほうが多いだろう。治る確率が多少なりともあるということはいくらかでも希望が持てる。しかし、老いは回復することはない。不可逆な現象だ。そういう現実を見せつけられるというのはかなり心に来る。

生まれた時から老いは始まるのだ。数十年も経てば、あちこちにガタが来るだろう。最初に生まれた場所を出てから、気づけば色んな所を巡っていく。そんな長い時間をかけた人生という旅路の中で、もう老いは始まっていたのだろう。その旅路の中で、色んな岐路に立たされ、時にはスポットライトを浴びる中で生まれるプレッシャーやストレスがどれだけ老いを加速させていたのだろうか。どんなに取り繕っても老いに逆らうことは出来ない。最初はゲームウォッチだったのがファミリーコンピュータで世界的な注目を浴び、スーパーファミコンニンテンドー64wiiと色々なところで舞台で働き、また3DSで元の職場に戻るという客先常駐のようなスタイルの労働はどれだけのストレスだったのだろうか。

あなたは歳をとったんだね、マリオ。昔はあんなに鮮やかに飛び跳ねて最高のタイミングで迫り来るトラップや敵を避けてゴールに向かうことができていたのに、今やジャンプのタイミングも方向転換のタイミングも合わずあっけなく散っていってしまう。いや、私は二十年も前にやったゲームのコース内容とか全部覚えてる訳だから、私が老けてないことは明らかなんだけどさ。二十年前と同じタイミングでボタンを押してるはずなのに何度やっても同じ所で敵にあたって死んじゃうとか、やっぱりマリオ側が老けたよね。マリオが老けてジャンプとかBダッシュにキレがなくなったせいで、1-1をクリアすることすら難しくなったんだよね。いや、私の反射神経とか瞬発力が悪くなったとかじゃなくて。もう何十年も体を張り続けてるマリオが老けるのは当然だからね、ホントしょうがないよね。1-1がクリアできなくっても。いやマリオ側の責任という意味でね。まぁマリオが老けたんじゃあクリアできなくてもしょうがないよね。老いって怖いね。

「足元注意!」の立て札って罠じゃない?

今日も今日とて朝の散歩がてらに缶コーヒーを買いに行ったところ、行く途中の道で昨日までは無かった立て札を発見した。目が悪いから立て札に書いてある文字が見えず、なんだあれ?と思って目を細めながらその立て札にそろそろと近づいていったところで、派手にズッコけた。立て札の周りの道は凍結していた。コケた時に手をついたものの、ちょっとだけ血が出た。先週末の雪がちょうど溶けてきたのが夜中に凍ったのだろう。こういう雪が降った後って、雪が降ってる当日はそんなに滑りやすいわけじゃなくて、その数日後のが危なかったりする。雪が止んで日中に太陽の光があたって雪が溶けるんだけどその溶けた水が凍ったり、雪が踏み固められてアイスバーン状になって氷と同じくらい滑りやすくなったり。そういう日に歩いている時、道から目を逸らすとこうやってこけてしまう。立て札に気を取られて道を見てなかったからコケたのだ。で、結局その立て札には何が書いてあったかというと、「足元注意」。うるせえ。

睡眠不足をどうにかしたいなら、睡眠に対するこだわりを捨てろ

睡眠に関する本を読んでる。

レコーディング快眠法

レコーディング快眠法

この本の著者の別の本の紹介文では「バイラルメディアには適当な記事が多い」と大見得を切っていてまるで俺が本物の睡眠に関する知識を教えてやるよとでも言いそうな強気な感じが気に入ったので買ってみた。半分くらいしかまだ読んでないけど、それでもなるほどと思える事が多い。

睡眠の本懐は昼間の行動にあり

1日最低6時間は寝たい。それも途中で起きたりせずに出来るだけ6時間以上ぶっ続けで。というのをここ1,2年ずっと思っているのだけれどもうまくいっていない。どうしても1日4時間とか5時間くらいの睡眠になってたり毎日のように夜中に目が覚めてしまう。睡眠かくあるべしみたいな理想と現実は程遠い。

が、そもそも睡眠は何のためにとっているのか。睡眠は日中の肉体的疲労や精神的ストレスを回復させ、それらの疲労を明日に持ち越さないためにとるものだ。だから別に理想的な睡眠時間とかどうこうとかは直接の関係がない。要は何時間寝ようが、夜中に何度起きて睡眠を中断しようが、その次の日の昼間に元気に動けていればそれでOKだということ。そんなことが書いてあった。

確かに理想的な睡眠の形を夢想してそれを目指そうとしてるのは手段と目的を履き違えてる感じがある。目的は次の日の昼間の行動に支障をきたさないことであって、その手段が睡眠なわけだし。6時間ちゃんとぶっ続けで寝られるけど昼間はボロボロで何も出来ないというよりも、形はどうあれ昼間ちゃんと動ける程度の睡眠がとれればそれでいいということだ。どういう睡眠が理想的かなんて、年代や育ってきた環境とか今の環境によってだいぶ個人差が出てくるんだし、6時間~8時間という定説にとらわれる必要はない。

睡眠を意識しすぎるほうがダメになる

銀魂で、銀さんが明日の朝早くから仕事があるので早く寝なきゃいけないんだけど、目が冴えちゃって眠れなくなっちゃった、早く寝なきゃ早く寝なきゃと焦るんだけど、そういえば普段寝る時って眼球をどういう位置においてたっけ?舌とかどういう位置においてたっけ?どういうリズムで息してたっけ?みたいな疑問が湧いてきて、そういうことを意識しちゃって余計に眠れなくなる、みたいなエピソードがあった。

「ピンク色の像のことは考えないでください」みたいな、普段考えもしないような意識しないようなことについて意識し始めると、それをやめようと思っても余計に意識してしまうみたいな感じの話。それが睡眠にも当てはまるとのこと。変に身構えてしまうとそれが逆に不眠を招くことがある。

普段ちゃんと眠れないから上手く寝れるように色々策を講じてみるけど、そうやって変に意識を向けると余計に意識が向いてしまう。寝る前にスマホ見るのは良くないとよく言われるけど、じゃあブルーライトの出ない紙の本をほんだりヒーリング音楽的なものでも聞いてれば眠気が出てくるのかというとそうでもないらしい。なので変に小難しい本を読んで眠気を誘おうとか音楽聞いて入眠しようとするとうまくいかず、その経験を無意識の内に学習してしまう。学習というか条件付けみたいなもの。つまり意識して眠る前に何か行動を起こせば起こすほど、それがかえって睡眠の障害になり、そしてそれが入眠を妨げる条件付けとして体が覚えてしまう。良かれと思ってやっていることが裏目裏目にでれば、その分だけ睡眠に対する不安や焦りを生む。それがさらに不眠を悪化させることすらあるみたい。

こだわりが生む悪循環

曖昧な根拠で決めた理想的な睡眠時間にこだわり、それを達成するために睡眠直前の行動に意識置き過ぎるようになり、それがプレッシャーのようになって逆に寝れなくなる。とにかく変な理想やこだわりを捨てて、どういう睡眠だろうと明日動ければそれでいいやくらいの心持ちで望むほうがいいみたいだ。今夜寝れなくて徹夜したところで、明日の夜には馬鹿みたいに眠くなってるのがオチだろう。殆どの場合は1日我慢すればちゃんと眠りにつけるわけだし。

というような感じで睡眠に対する心構えを解釈した。この本の意図通りなのかは分からないけど。レコーディング快眠法というタイトルなのにまだその肝心の快眠メソッドの部分は読んでないのだけれど、それでも得るものはたくさんあったように思える。とにかく変に理想に突っ走らないようにしよう。