観察眼の無さが生きる力の無さ

この三十年近くピカピカしている白色灯の元で生きてきた。今自分の部屋にある祖母の代から使ってる電灯が切れかけてるのかチカチカすることがあり、それが嫌だったから、部屋の照明を間接照明に変えてみた。びっくりするくらい居心地が良くなった。何たるライフハック。もうこれから間接照明で生きていこうと思った。今後一生、間接照明さんのお世話になって生きていこうと思った。

一手間のコストをリターンを予測できない観察眼の無さ

そういえばと考えると、今までこういう事をしたことがほとんど無かったように思える。ちょっと一手間かければ快適になるのに、その一手間のコストを嫌がり面倒くさがり相対的に不快な状態のままでいた。洗濯機を買えばいいものを、冬の水仕事がつらい時期でも我慢しながら洗濯板使って洗濯してるとか、暑くて汗ダラダラ流してるのに半袖のシャツ着ないとか、そんな感じ。 一手間のコストに対して面倒くさがるのは、そのコストをかければ快適な状態になれるのを理解できない損得勘定の下手さというわけではないんだと思う。むしろ損得勘定については下手というわけではなく、洗濯板使ってる状態と洗濯機をつかっている状態の快適さの差分を感じ取ることが出来ない感受性の無さというか不感症というか、その差分を考えることすら出来ない馬鹿である事が原因な気がしている。日々の瑣末な事に対する観察眼が無いと言ってもいい。洗濯板の状態と洗濯機の違いが分からないから、不快な状態と快適な状態の差分による快感を得られない。 差分を理解できないがために、一手間は快感と結び付けられることがなく、寧ろ無駄なコストと結び付けられているということなんだろう。

快感を得る力、明日を生きる力

明日を生きたいと思う人間は何を糧にしているのだろうか。白色灯と間接照明に変えて居心地良く感じるようになったとか、毎日しなければならない洗濯が洗濯機のお陰で楽になって自由な時間が増えたとか、そういう広い意味での快感を得るがために明日を生きるのだろうか。自分の些細なクオリティ・オブ・ライフを上げる行動であったり、日々の仕事で得る達成感、友達や恋人との過ごす時間。体を動かしたりゲームをしたりして得る楽しさ。それらは一種の中毒性みたいなものを自分の中で感じるのだろう。 「楽しかった」で終るのではなく、「楽しかった、もう一度体験したい」と思う。行動とその報酬が結び付けられるという状態。自分の感情を観察しているからこそ、その行動のもたらすものが快感であると理解できる。そしてその快感を何度も体験したいという性が、行動を促す。「もう一度体験したい」という感情に基づいた行動が、社会的に生産性のある活動であったり、自身がより良く生きるために起こす行動なんだろう。自身が体験した快感の旨味を知っているからこそ、そしてそれをもっと欲する本能があるからこそ、人は多少の障害を乗り越えても生きていけるのであろう。

生きてたって何も面白く無いという自暴自棄っぷりが自分自身の感情に対しても真摯でなくなる。どうせ楽しくもないだろうと決めつける。そうして快感を得られなくなる。快感は行動へと紐付けられることがなく、何も行動をしなくなる。生きる気が起きなくなる。なんて素敵なピタゴラスイッチだろうか。自分自身の感情に対する観察眼を磨かなければ、生きる力は衰えていくのだろう。