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自分を責めすぎるのは、自惚れと贖罪のため

この本を読んだ。この著者の本は他にも読んだことがある。基本的にはこの人の仮説は、農耕の発明以前旧石器時代に培われた脳の機能の影響が今も色濃く残っていて、それがここ数千年で急速に発達した社会に対応できないことがあるために心が折れることがあるんだよ、みたいな感じ。石持ってウホウホ言いながらそこら辺に落ちてるドングリとか虫食べてたまに熊とか猛獣に襲われたりしていた時代が長く続き、その間にその猛獣に襲われた時とか食べ物が十分にあるか分からん時代に備わった危機管理能力が今の社会でも過剰に出てしまうアンバランスさが問題になっているというのが根底にある。で、それをある程度踏まえたうえでどういうテクニックなり心の持ちようでのり切ろうか、というのが本に書いてある。その仮説が本当かどうかは分からないけど、説得力はある。

で、この本読んでてウッと思ったのが、自責傾向にある人の心の中を言ってる部分。この人に言わせると、自分の責任だと考えるのは究極のポジティブシンキングとのこと。どういうことかと言うと、人は自分の責任だと思えば、何かしら行動を起こして事態の収束に当たろうとする。またはそう出来るようなことを考える。つまりそれは自分が何か行動を起こすことで、事態を変える可能性が大いにあると考えているからだ、ということ。なるほどと思った。地震が起こって、自分のせいだ…と思う人はいない。アメリカの地震発生装置が起こしたんだ!みたいな陰謀論を唱える人は、旧石器時代からかなり違うベクトルへ進化した人たちなので、この仮説にはあてはまらないだろうけど、何にしても、そういう天災の類それ自体に自分の責任を感じる人はいない。自分じゃどうしようも出来ないのはわかりきっている。地震とかは極端かもしれないけど、そのスケールを段々小さくしていって、あの仕事がうまくいかなかったのは…みたいに考える人は多い。自分もそういう考え方をしてしまう。自分があの時ああしておけば…みたいなことを考えてもしょうがないし、実際そうしてて万事うまく行ったのかどうか、そのifは分からない。そもそも自分にその時何かしらのスキルがあれば乗り切れたのか、それ自体がよくよく考えると疑わしいところがある。

何かが失敗したとして、その失敗したものの関係者のうち、ある人間だけに100%責任があり、他の人間は0%ということはない。10:0の割合でどうにかなることなんて世の中殆ど無いと思う。誰もが責任の一翼を担っている。それを、自分の行動によって変えることができたんだと思い込む傾向がある人は、万能感がありすぎるというか自惚れているのかもしれない、なんて思った。責任の一翼は担っているがゆえに不安や罪悪感が生まれる。それらから逃れたいがために、それらをある程度背負いながらも生きていくこと自体に罪悪感を感じるため、その一種の贖罪として自責に陥るのかもしれない。

生きてる上で自分がどう動いたってどうしようもないものは沢山ある。自分の一切の責任を認めないのもどうかと思うが、ある程度の罪悪感や不安を抱える覚悟をしながら、そのうえで自分の行動とか責任範囲はどれくらいなんだと線引していかないといけない。難しい。