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LIFE IS HAPPY!!!

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気が緩む

3ヶ月位取り組んでた課題が一段落したので気が抜けた。一段落したから気が抜けたというよりも、一段落しそうなのが目に見えてきたので気が抜けたという感じ。実際は一段落する直前にそれまで張っていた緊張の糸が切れたような感じがして、完成直前でやる気があがらなくなってしまった。ゲームとかやっていても、ラスボスの手前くらいまでくると急にやる気が無くなってしまうことがよくある。そんな感じ。これが完成したらちょっと休もうとずっと思っていたけど、実際に気を休められそうになるのが見えると、そのまま気力も吹っ切れてしまう。

自分がそういう感じになったときのパターンはだいたい分かっていて、まずあと少しで完成だと思った時点で張り詰めていた気が緩む。そうするとちょっとモチベーションが上がらなくなるので、あと少しで終わるし今日は抑えめにいこうと思う。ちょっと抑えめでいこうと思うと自分に甘くなって、休憩しすぎたりしてしまって、それに合わせて大分モチベーションが下がる。そうするともう捨て鉢気味になってもういいや、今日は作業はやめて休みにしようと思う。次の日も同じように完成間近なのがわかっているので、気が緩む。そうなるとまた同じように休む。

息抜きのタイミングとどれくらい行うかがよく分からない。抑えめで行こうと思っても、どれくらいなら自分でも抑えめなのかよく分からない。自分の中で基準というか適量がよく分からないので、日々の体調とかに合わせてペースを変えたりができない。ギアチェンジが出来ない。というかギアが無い。進むと止まるしかない。意図的にギアチェンジができるようになるにはどうしたらいいのか。

見返したいと思うこと

日記

これから何かそこそこの事をやらかして誰かにそれを自慢して屈服させたいみたいな願望が少しある。誰か見返してやりたい明らかなターゲットがいるわけでもないんだけれど。

もう見返したいとか成功したいみたいなことを思っていること自体が、今の自分がどうしようもなく負けていることを意識している証な気がしてならない。何を持って勝ちとか負けとか決まってるわけでもないし、その勝負の審判はいないから実際のところどうなのかは分からない。というか人生勝ち負けとか正しい正しくないで表せるものでもないのだろうけど、それでもそういうことを感じてしまう。

無職でいて悪かったことは枚挙に暇がないが、良かったと思えることも少しながらあって、その1つは人生短いと思ったこと。起きている間はずっとゲームに勤しんだりマンガを読みふけったり映画やドラマを見てみたり小説を読んだりしているとあっという間に時間が過ぎる。で、そのゲームやドラマや小説が何を表したかったのだろうかとかどういうメッセージが含まれていたのだろうかと考えると更に時間が過ぎる。あとは作りたいものもいくつかあるけど、今のところ1つも作れていない。作ってないわけじゃなくて作っているのだけど一向に完成しない。完璧主義過ぎるわけでもないし、かなり削れそうなところは削っても全然完成しない。そうこうしてる間に時間が過ぎる。

とにかく、いろいろ楽しいと思えることやるには時間が必要になる。ここ最近体調が良くなるに連れて、今まで手を出さなかったジャンルの小説やドラマを見てみようとかって気持ちも出てきた。自分が楽しめそうなものがたくさんあることが分かった。そしてそれらがどう甘く見積もっても自分が生きてるうちに全てを消化しきれるような量では絶対にないことが分かった。そういうものを楽しむのに数十年じゃ少なすぎる事がわかった。

そう考えて冷静になってみると、誰かの鼻を明かしてやりたいなんて思うのが馬鹿らしくなった。そんなの一銭の得にもならないし、そんなに楽しくもなさそうだ。正直多少は楽しいと思うだろうけど、楽しめたとしても今この時間に放送しているバラエティ番組1本分にも値しない気がする。どう考えてみても見返す行為にあたって感じるネガティブな感情とか見返すのに必要な労力や時間と楽しみは割にあわない。

それでも気を抜くと、無意識の内に誰かを何かを見返してやろうみたいな気をどこかでくすぶらせているのを感じる。この火種はいつになったら消えるのだろうかと思う。

地べたに座っても痛くない

日記

ということを今日発見した。

日がな一日PCをいじりながら座り続けているので、2週間に1回位お尻が痛くなって何も出来なくなる。痛くなるというかヒリヒリする。良さそうな座布団を買ってみたり、座椅子を変えてみたり、立ってPCを扱えるようにしてみたり、寝っ転がりながら作業してみたり…と色々手を変え品を変えどうにかやり過ごしていた。けどやっぱり最終的には座るのが一番集中できてやりやすいので、元通りになる。今は座布団を二枚重ねにしてみている。

それでもやっぱり痛くなる。けど1日2日何か別の方法を試してから元通りに座るようになると、不思議と痛みが消えてたりする。別に座布団がヘタったりしてるわけでもない。何で痛くなくなるのかはよく分からない。疲労がおしりにピンポイントで出ているのか?多分そうではなくて、普段はお尻の筋肉を緊張させているからあまり痛まないけど、疲れてる時は筋肉を緊張させるパワーもないから痛みがダイレクトに体に伝わりやすいんじゃないかと思っている。

今日も痛くなってどうしようかと考えてみた。で、地べたにそのまま座るのが今のところ一番落ち着いて痛くならないことを発見した。座布団に座っているときは10分くらいで限界が来るのに、畳の上にそのまま座ると1時間以上そのままでもいられる。何のために座椅子や座布団を買い換えたりしたのか…。灯台下暗しと言う言葉はこういう時のためにある言葉なのかもしれない。いや、こんな言葉で表せる間抜けな状況なんぞに陥りたくはないので、出来る限り使いたくはないのだけど。

何故なんだろうかと考えてみるけど、よく分からない。先の推測はあまり正しくないのだろうか。疲労度によって痛みが変わるなら、座布団があったほうが痛みはやわらぎそうなものだけれど。

これもまた色々考えてみたけど、座布団に座っているときと畳にそのまま座っている時では使う筋肉というか体へのダメージの与え方というか与える部分が違ってくるのかと思った。ずっと同じ姿勢でいると体に良くないみたいな理屈の延長で、同じような姿勢で同じもの(この場合は座布団)に体を預けていたら、それに筋肉や諸々が最適化されすぎてダメージがその部分にだけ蓄積してしまうんじゃないか。働いてた時、何万もするような結構いい椅子を使わせてもらっていたのだけど、それでもやっぱり同じような現象は起きていて、そういう時はノートPCだけ持ちだして会社の会議室の椅子とか非常階段に座りながら作業していた。座布団だろうがいい椅子だろうが、ダメージを吸収してくれるものがあるのは良いのだけれど、それでも遅かれ早かれ限界は来るし、その度に別の方法でやり過ごさなきゃならない。どれだけ信頼できる何かに頼って身を預けていても、いつかは不和が必ず発生して、それは別の手段でその不和を解消しなきゃならない、というのは別にお尻にだけ言えることじゃないじゃないかな、とか思った。非常時は意外と「地べた」でも大丈夫だったりするのかもしれない。

知るか

日記

って即答できるようになりたい。瞬発的に「知るか」って考えられるようになりたい。

何かやろうとしても、誰かの目が気になる。別に誰の目というわけでもないのだけれど、誰の目でもある。自分の記憶の中にある人たちそれぞれからどう見られるかみたいな事を瞬発的に考えてしまう。物理的な距離とか、親しさとか、そういうもの一切が関係なく、とにかく頭にパッと思い浮かんだ人たちからどう見えるのだろうと考えてしまう。自意識過剰以外のなにものでもないんだけれど、とにかくそういう考えが絶対によぎる。

いい歳をしていながら田舎で昼間にブラブラ散歩でもしていると、人目が厳しくなる。石を投げつけられてるような感覚でジトーっと見られていると感じる。自分は自意識過剰過ぎるというバイアスがかかっていること込みで考えても、あまり良い見方はされていないことだけはわかる。それでもそんなものに屈してたまるかと思いながら毎日散歩をしていて多少ふてぶてしくはなってきたものの、やっぱり何か色々考えると人の目を考えてしまう。

「知るか」と言えないのは、そう言ってしまったら何をしてるのかわからなくなるからなんだろう。自分がしていることすらも人の目によって決められていたんじゃないのかと思う。「決められていた」と言うとそういう環境を作った人たちの責任みたいな言い方になってしまうが、99%くらいは自分の責任だ。この人に見放されたら生きていけない、だからその人のお目にかなうようにこうしないといけないという前提のもとで行動してきたんだろう。で、その「この人に」という人もたくさんいる。というか誰を頼っておけば今のところOKなのか、みたいなことすら考えなかったせいだろう、そういう基準すら無いので、会う人すべてが「この人に」という位置づけになって、世の中すべての基準に合わせざるを得なくなる。

そこは手を抜いたらダメだろうというところで手を抜いて怒られることがちょくちょくあった。あれは人の目だけを気にしてたから、その本質がどこにあるかも分からずにただただ形だけを真似ているという行動の、ボロが出た瞬間だったのかもしれない。自分はダメだ、ああ自分はなにやってもダメなんだと無意味な自責をする時間を反省に充てるべきだったと考えてはみるけど、結局形を真似ることしか知らないから反省によって修正すべき方向性がわからなかったんだから、結局やることはまた反省の外っ面だけ真似た自責しかできなかったんだろう。

お前らの基準なんか知るか。と言えればいいんだけども、どうすればいいのかは分からない。慣れみたいなところがあるんだろう。別に無職がただ散歩してるくらいいいだろこっちの勝手だろ!と思うふてぶてしさは怒りの力を得ながら出来たものだ。シラフでちゃんとできるかは分からない。散歩くらいならまぁ出来そうだけれども人間関係とか仕事とかを考えるとドンドン不安になる。

不安になってもしょうがないので慣れていくしか無いのだけれど、どこに基準を持ってくればいいのか。何もない中で何を頼ればいいのか。自分の感覚で…といっても流れに流され行き着いた先がこのどん詰まりなので、その流れの中で培った感覚を頼る気には全くならない。一つ確かなのは今は頼れるものが無いということなので、それを頼りにして何時でも誰にでも「知るか」と言えるようになる方向を目指す…という曖昧な進め方しか無いかなと思う。お前が何してたって知るか!こっちはこっちの都合があるんだ!別にいいだろ!お前なんか知るか!

ルールを無くすためにルールを作る

朝起きれない。今に始まったことではないけど。起きれないというか、起きても目覚まし時計を止めてから二度寝してしまう。それでそのまま3,4時間くらい寝る。一回目に起きた時はもうどうしようもなく眠くて眠くてどうしようもないので、二度寝をしてしまう。夜間の眠りが浅いのだろう。でも中途半端に長い二度寝をしてしまうと眠気は多少紛れるもののダルさが残って生活リズムがおかしくなってその日もまた寝れなくなる。1度二度寝をしてしまうとそんなループに陥るので、二度寝しないようにアラームを複数セットすることにした。それで日中の疲れが大きければ大きいほど夜間の眠りも深くなるだろうと思って、時間割というか朝何時に起きて何時までは作業して…みたいなスケジュールを見なおして作業時間を多くするようにした。

こういうことをしている内に、はたと自分は何をしているのだろうかと疑問に思ってしまう。そうやってルールを追加していって、どこへ行くのか。働いてた時は出来るだけルールとか制約の少ない環境にいたいとか思っていたはずなのに。働いていない今、やろうと思えばルールなんて何もない行動にも出れるのに、毎晩遅くまで起きて本読んだりゲームしたり映画見たりできるのに。ちゃんと寝てないと本読んだりゲームしたり映画見たりも出来ないので寝なきゃいけないし、効率的にそれらを堪能できるようにするには生活リズムを整えたほうがいいし、そうなると結局ルールが必要になってくるし…目的と手段があべこべになっているような気がする。こんなもんなんだろうか。

目標の建て方が下手くそな人

自分だ。色々やってて目標の建て方が下手くそだなと思う時がよくある。色々決め打ちにしすぎるのがいけないのかなぁとふと思った。

作業してて今日はこの機能を作るのを目標にしよう、というのを大体毎日決めてる。1日1機能くらいにしてる。で、その機能ができると満足してしまう。目指すべきはもっと先なのに、目先の目標で毎日満足してしまう。そういう明確で達成しやすい目標なのがいけないような気がする。勉強のために本とか読んでても、この「章」を読み終わるまで休憩しないでおこう、とか考えてしまう。区切りの悪いところで中断すると、後で再開するときに手間取ってしまうような気がする。章とかの終わりのような明確でわかりやすい目標ばかりを見てそれに合わせてしまうからいけないんじゃないのかと思う。

試しに1日2機能くらい頑張ってみるとうまくいくこともある。当然体調とか見積もり精度のブレもあるので毎回そういうわけじゃないけど、それでも成功することはそう少ないわけじゃない。章のような区切りのいいところまでなんとか引き伸ばして休憩を入れずに、疲れたとか集中力切れたとか思ったら区切り悪くてもそういう瞬間にスパっと読書を途中でやめても、休憩入れれば再開にさほど集中力使うこともない事が多い。

なんか最小限のわかりやすい目標ばかりを立てているから、それ以上に集中力ややる気も伸びず、変に区切りの良さだけに注目しちゃってるせいで、目標が本来の意味をなしてないような気がする。

長期的に悲観的な考え方

「短期的には悲観的に、長期的には楽観的に」考えるのが精神的にいいらしい。色んな本に書いてあった。自分の場合はそれができない。短期的には楽観的になったり悲観的になることはあるけど、長期的に楽観的になることがあんまりない。

ここ一週間くらい、その長期的に悲観的な考え方がものすごく全面に出てきて生活リズムがちょっとおかしくなったり、やらないといけないことをこなせなくなってきてる。

どうしたらいいものかと考えてみたけど、結局は考えないのが一番いい気がしてきた。喫緊の事とか割と短期的に、少なくとも半年以内くらいには自分が直面しそうなことについてのシミュレーションを行ってる内に多少元気とやる気が出てきた。自分は想像力も無ければ、長期的に楽観的になってうまくいった経験というか自信が無いからこそ、長期的に考えたところでどうにもならないんだろうと思った。短期的に差し迫ったことに対してのシミュレーションをして良くなったケースがあるのかと言うと思い当たりもないけど、それくらいなら多少は現実的な想像ができるので、短期的な課題をシミュレーションした結果このままじゃヤバイという結論に至っても、じゃあ打つべき手は何なのかをまた現実的に考えられるし、その現実的な選択肢が乏しいものでも、その中からどうにか面白そうなことを想像できるし、それくらいなら見込みはあるので、長期的なことを考えるよりか幾分マシになるんじゃないのかと思った。

二十歳くらいのとき、25歳の自分が想像できなかった。生きてないんじゃないかと思っていた。25歳になった時、30歳の自分が想像できなかった。生きてないんじゃないかと思っていた。多分、28とか29くらいで死んでるんじゃないのかと思っていた。30歳になった時にどうなっていたいのかは想像できないけど、ただ、最低でもこれくらいにはなっていたいみたいな漠然とした合格ラインが無意識の内に頭のなかにあって、それをクリアすることが出来なさそうだということが28とか29になった時点で分かって気が狂って死ぬんじゃないかと思っていた。今、30歳が近づいてきてる。確実に合格ラインは超えられない。引きこもりの無職なんて社会的に死んでるも同然だ。やっぱり長期的な見込みはうまくいっていない。

場当たり的な考え方だけじゃどうしようもないけど、今をどうにも出来てないのに長期的なことを考えようとしたって悲観的な考えしか浮かばないのは当然のような気もする。今考えるべきは、色んな意味で喫緊の事に限定しておいたほうが良いのかもしれない。