「やる気」という言葉を使ってる時点で負けてるのかもしれない

やる気がでない。とにかく出ない。
やればなんとかなるのはわかっている。なんでも良いから何か作業をし始めると脳の側坐核という部分が刺激されて、そのおかげでやる気が出始めるというやる気スイッチみたいなのが科学的にもあることがわかっているというのも知っているし、ものすごく嫌で嫌でしょうがないことでもいざ踏ん切りをつけてやり始めてみるとやる気が出てきてスラスラ出来るようになってあんなに嫌だったことがやってみると何でも無かったみたいな感じになるという自分の経験的な知識からもわかっている。
が、やりたくないことはいつもやりたくない。色々こなさなければならないタスクは山積みなんだけど、やる気がでない。ゲームとかしたくなる。毎日決まった時間に寝起きしようと思っているのだけど、朝目覚ましが鳴ると起きたくなくなってどうしようもなくなる。

今思うとよくこんな人間が小中高合わせて12年間も学校に行けていたものだなと思う。遅刻した日や仮病を使った日や本当に風邪とかひいた日もあったけど、それらは合わせても12年間の約4000日の内100日もなかったんじゃないかと思う。あのころは何でちゃんと時間通りに起きて学校に行けていたのか不思議でならない。よく宿題や予習もあまり忘れること無くこなせていたのか不思議でならない。多分その時も面倒だとは思っていたのだろうけど、今みたいに実際に手を付けられなくなるほどではなかったはずだ。あの時の自分にあってどうやって起きていたのか問いただしたい。

何で今やその時の面影もなくやる気がでないのかと考えてみたが、思ったのは「やる気」という言葉を使ってるからなんじゃないかということ。虹は7色だと日本では捉えられているが、アメリカでは虹は6色と捉えられていて、アフリカの何処かの部族じゃ3色としか捉えられていない、みたいな話で、現象があってそれに言葉をつけるのではなく、言葉があってその言葉の捉えようで現象の認識が変わってくるみたいな。「やる気」という言葉はやるという選択肢とやらないという選択肢の存在を前提としている。「やる気」というものがニュートラルな状態だったとしても、それをニュートラルだと位置づけてしまえば、そうでない場合、「ハイ」な状態と「ロー」な状態があることになる。気分なのだからアゲアゲな時もあればダダ下がりなときもある。とにかく、モチベーションとかやる気とか、上がり下がりのあるものだったり幾つかの状態を持ちうるものと認識してしまったら、もうその時点で「ハイ」な状態と「ロー」な状態の選択肢が自分の中に出来てしまうんじゃないかと思う。もっと、空気のようなあって当然みたいなものとして認識しなきゃいけないような気がする。やる気云々以前にやることはウダウダ考えた末に手をだすものではなく、何も考えずに手をつけるべきものという位のものとして考えなきゃいけないのかもしれない。

意味とか理由とか目的を求めちゃいけないタイプの問題

「これ、やってて意味あるの?」みたいなことを考えることがよくある。
目的や目標があるからこそ行動に意味が生じる。その目的により良くたどり着くために、その行動に理由をつけてこそそれが「意味」になる。プログラミングやらデザインとか勉強してて、これ何の意味あるんだろうか?と考えてしまう。自分なりの理由は金儲けのためだ。お金がないと生きていけない。生きてるだけでも、毎日寝てるだけでも保険料とか国民年金とか食費とかかかる。生きるだけでお金がかかる。お金を儲けてどうするのか。別に億万長者になりたいわけでもない。毎日うまいもの食べて暮らしたいわけでもない。欲しいものがあるとかそういうわけでもない。無ければ無いでまぁいいか、みたいな気分。じゃあ何でお金を稼がなきゃいけないのか、というか何で生きてんのか、というところにたどり着く。自分でもわからない。じゃあ死ねばいいじゃん、ということになるし自分でも「チャンスが有れば死にたい」くらいのスタンスでいたいと思ってはいるけども、やっぱり事そうなると痛いのやだし苦しいのもやだし怖いしなぁ…という気分になる。

楽しいことが今まで無かったわけではない。ものすごく楽しいことは多くあったが、それ以上に嫌なことがたくさんある。生きてて嫌なことがたくさんある。その多くある嫌なことを乗り越えてまで楽しい経験をしたいかというと、そうでもない。その楽しいことが、それに至るまでにある数多くの嫌なことを補って余りあるような快感を与えてくれるとわかっていてもそう魅力的には思えない。嫌なことから逃げちゃダメだ、みたいな言説を見ても、逃げた先にあるものと勇気を持って立ち向かっていった先にあるものの違いがよく分からない。いや、違いはわかるけども、それらに辿り着く意味はあんのかみたいなことを思ってしまう。嫌なことの嵐の中で立ち向かえるだけの気力を与えてくれるような意味とか目的とかそういうものが無い。そこに意味や目的が無かろうとも生き続けて嫌なことと向き合う覚悟も、スパッと死んで一切をそれっきり何も無かったことにしてしまう覚悟も、どちらもない中途半端な落伍者でしかない。

生きる目的を持ってる人のほうが多分少ないだろう。目的があったとしてもそれが達成された時に、目的達成したのでもう生きる意味ありません死にます、って人もいないと思う。その目的は生きる上での目的が(自覚的か無自覚かはわからないが)複数あってそのうちの1つだったりするのかもしれない。生きることに対して目的を据えたところで、その自覚的である目的というのはただのマイルストーンというか通過点でしかないのかもしれない。

とか何とかつらつら考えてはみるが、結局は結論が出ない。当然のことではある。何千年にもわたって頭のいい人達が考え答えを出しあぐねてきた問題を、そこら辺の無職が数日でどうにか出来るはずがない。生きる目的とか意味とか何なのか、自分なりの答えは出たとしても、それはものすごく浅はかな考えでしかなくて、結局は答えとして、自分の中での生きる目的とか意味としての役割を果たせないようなものにしかなりえない。

今は一応生きてるので惰性的に生き続けると思う。けど生きる限りは楽しいこともあれば嫌なこともある。生きるという非常に精神的なエネルギーを使う行動をする上で必要なガソリンとして、生きる意味とか目的を据えようとはしてみたが、やっぱり無理っぽい。「こういうもんだから仕方ない」とある程度の思考停止をしないと、もう本当に全く動けなくなるだろう。こういう類の問題はそう簡単に答えが出るものでもないし、というか多分答えなんてないし、変に考えすぎてしまうと今までやってきたことって何だったのかとかこれからすることって何のためなんだと思ってしまって足が止まってしまうので、もう考えないほうがいいのかもしれない。「わからん」の一言で終わらせてもうそれ以上踏み込まないほうがいいのかもしれない。

基準を作るのって難しい

webデザインのために色々なサイトを見てる。
自分の今の感覚だけでシコシコ作っても、それがかっこよくなることって殆ど無いだろうな、と思うので色々なものを参考にしたいと思ったから。
かっこいいのもあれば、これでよくOKが出たな…と思うようなダサいデザインも多くある。流行に乗れてなくて一昔前なら評価されてたんだろうけど、今見るとダサいな…みたいなサイトもある。たくさんありすぎて何が何だか分からない。

自分にとって、webデザインの役割は目を引くこととかじゃなくてプロダクトの情報を出来る限り効果的に伝えることだと思っているんだけど、こうたくさんありすぎるとやっぱりかっこいいものとか派手さで目を引くものに興味を引かれがちになってしまう。

色々見てみるだけじゃなくて、色々見てその1つ1つにこれはどうしてダサいのか、どうしてかっこいいのか、かっこいいけど本当に情報が伝わりやすいデザインなのか、とか色々考えなきゃ意味が無いと思って、サイトのスクリーンショットを撮ってここがすごいとかここが良くないとかコメントをつけてevernoteに保存しているけど、コメントをつけるのもそれはそれで難しいなと思う。何故良かったのか、何故ダメなのかの基準が自分の中にないとかデザインの原理原則を自分の中でまだ理解できてないんだろうなと思う。

ああでもないこうでもないととにかく色々考えなければならないけど、その考えている内に自分の中に出来上がっていく美醜の基準が果たして本当にそれでいいのか、世間の感覚と大幅に違うようなものになっていないのかとかそういう不安もある。基準がダサければ何も参考にせず一人でシコシコ作ってるのとそんなに変わらない。

その辺の基準の作り方というのはどうしたらいいのかなあと悩み続ける。

出来る人と出来ない人の違い

デザインの教室 手を動かして学ぶデザイントレーニング(CDROM付)

デザインの教室 手を動かして学ぶデザイントレーニング(CDROM付)

デザインの勉強をしようと思い立ち、今はこの本を読んでいる。お題が出されてそれをイラストレーターを使いながら自分でデザインしてみるという本。
自分でデザインしてみて、自分で改めて自分のデザインしたものを見ると、下手くそでダサいな…と絶望的な気分になる。
自分で手を動かしてみて分かるが、考えなければならないことが多い。「色は黒、白、グレーの3色のみ。それでこのコピーを使ってハガキ1枚をデザインしてみろ」というようなお題が出てくるんだけど、かなりシンプルで制約が多いように見えてもどこから手をつければいいのかが分からない。かなり集中力と体力を持っていかれる。すごく疲れる。精神的な負担が半端ない。

自分はプログラマーをしていたので、ある程度はプログラミングが分かるつもりではある。自分の扱ったことのないプログラミング言語でwebアプリを作れ、と言われても多分ハガキをデザインする数分の一のパワーで出来るような気がする。webアプリしか作ってこなかったのにandroidアプリを作れ、と命じられた時もこんなに精神的な負担は無かった。なにがこんなに違うんだろうか?と考えてみた。

どこからスタートするかが分かるか分からないか

まずこれをデザインしろ、というお題を渡されても、どこから手をつければいいのかが分からない。他のデザインの本でも「まずは要件を整理しろ」と書いてあったが、それが出来ない。いや、出来るのだけど、要件を整理して見せるものの優先順位は何となく付けられるのだが、それの1番目をどこに配置するかが分からない、決められない。一番目立たせたいものがあるなら真ん中に置け、というのはあながち間違いではないのかもしれないけど、全てがそう簡単にはいかない。とりあえずまず真ん中に置いてみてから後はそれに合わせて決めます、となるとどれも同じで単調になってしまう。 プログラミングの場合だったらどうだろうかと考えてみた。自分の場合、まずは作るものの主機能となる部分が実装可能なものなのかを確認する。その機能だけ抜き出したようなプロトタイプを作ってみる。また、その主機能がもう実装可能だと明らかにわかっている場合はユーザー認証周りから手を付ける。大体今作るべきものってユーザーとデータをどうひもづけるか、というのが主になるのでその軸になる部分を一番最初にやる。これがあるべき姿なのかどうかは分からない。もっといい順序があるだろうが、自分はこうするというのが決まっているので一歩目が出しやすい。そういう風になるように設計しているから、というのもあるのかもしれないが… 何にしても、どういう要素があるのかを全て洗い出して、全ての要素のことを考えた上で、つまりは全体を考えた上でないと一歩目が出せない。

「何故そうしたのか」という論理が組み立てられるか組み立てられないか

一歩目をどう踏み出すかということと絡んでいる。一歩目が出せれば、それに合わせて原理原則などの知識が利用できる。一歩目を基準として原理原則理論を要件の中で当てはめてみれば、二歩目は大体ある程度の数に絞られてくる。理論であったり知識があるのが前提だけれども、そういうものを応用できて二歩目、三歩目が出せるのではないかと考えられる。そもそも一歩目も、全体を見て多々ある要素を全て盛り込んだ時のバランスを考えてる中で知識を適用して踏み出せる。 先の自分のプログラミングの例であれば、主機能のプロトタイプを作るのはそもそも前提条件としてその要件を満たせるかという確認でもあるので、一歩目を踏み出す前の段階。ユーザー周りを作るというのが多くにおいて一歩目となる。それはユーザーとデータとのつながりがメインになるので、ユーザー周りができていないとそれとひもづけるべきデータを作れないからとか、そういう理屈がある。

自分の手札を上手く使えるか使えないか

とは考えてみたところでデザインが出来るようにはならない。そもそも自分の考えが間違っていたというのもあるかもしれないが、知識が圧倒的に欠けているような気がする。デザインに関して色々な理論や原理原則があるのは他の本でも見たのだが、それがどういう力を持っているかどういう場所で使うものなのかは実際に使っていないものが多いため、ちゃんと理解していない。それらの原理原則を1つ1つ実際に使ってみてどういう場所でどういう風に使うものなのかを理解し使いこなせるようになってからでないと、一歩目二歩目を踏みだすための論理として機能しない。最初から全てを使いこなすというのは無理な話だろうから、小さいものからでも1つ1つ自分の手札としていくしかないのだろう。そしてそれを手札とする方法こそが練習なんだろう。

デザインであろうとプログラミングであろうと何であろうと、出来る人は凄いな…と思いつつ今日もイラストレーターと格闘する…

恐怖突入という解決方法

面倒だと思うことに手をだすのは嫌だ。やりたくない事をやるのに腰を上げるのに本当に時間がかかる。やらなきゃいけないことをするためにパソコン開いたのにとりあえずyahooのニュース見てみたり音楽聞いてみたりして中々手をつけないことはいつもだ。

ちょこちょこ読んでる認知療法の本に無力感に襲われた時とか不安になって行動を起こせない時、行動を起こす前にその行動に掛かりそうなエネルギーやその行動によって自分がどういう感情にどのくらいの割合でなりそうかを見積もり、実際行動した後にその行動にかかったエネルギーと感情がどうなったかをメモして比較しろという療法があった。大体行動したくないと思ってるものは頭で思ってるほど面倒なことではないらしい(その行動の区切り方にもよるだろうけど)。その行動が面倒だと思うときやそれを行うことで他人に変に見られないかと思う気持ちを乗り越えて行動することを別の本では「恐怖突入」と読んでいたのを思い出した。

これは元々面倒くさがりな自分にとっては有効な手段だなぁと思いながらも、結局その恩恵を受けるには嫌だなあと思ってることを行動に移さなければならないんだな…と思ってちょっとショックだったりする。やりたくない事を出来る限りせずに生きていたいけど、結局そうやって生きていく方法はほぼ無いというようなことを言われてる気がするし、実際そうなんだろう。

いい歳こいて未だにボールペンを分解する癖治したい

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部屋に一人こもりながらメモ用紙を前に右手にボールペンを持ちながら色々考えている。 そうするとフッと気づいた瞬間にボールペンを両手に持っていることに気づいたりする。正確にはボールペンを両手に持っているのではない。「元」ボールペンだ。ボールペンの先っちょの部分とバネの部分が左手に、それ以外の部分が右手に握られているのである。なんなんだこれは。一体何がおこったというのだ!?一体何でボールペンがこんなあられもない姿に…!?いやまぁ自分で分解しただけなんだけど。なんか我に返ったら目の前には無残にもバラバラになったボールペン、そして両手はボールペンのインクにまみれていた…ってなんか多重人格で複数ある人格の一つが猟奇的殺人者でした、みたいなサイコサスペンス小説みたいだ。やってることは殺人と遺体のバラシじゃなくてボールペンの分解だけど。むしろいい歳してそんなことしてる方がちょっとしたホラーな気もする。

片付けを成功させ綺麗な部屋を保つたった1つの方法

こんまり本につづいてこの本を読んでみた。

1日5分! お片付けノート

1日5分! お片付けノート

この「1日5分!お片付けノート」、こんまり本とはかなり「逆」を行く。 この本では「捨てる」というアクティビティに重点をおいている。ポイントとしては ・毎日3~5個、モノを捨てる ・捨てたものと、それを捨てた理由を書く ・一気に片付けをしない、毎日続けて習慣にする というところ。

こんまり本との違い

捨てる理由を明確にする

こんまり流なら「ときめかない」なら捨てるという直感的なやり方なのに対して、1つづつ捨てた理由を明らかにしていくのが本書のやり方。捨てるモノと向き合う時間を作るという意味では変わらない。が、その裏には片付かない理由を自分の中で明確にすべきという本書の中でなされている主張があるのではないかと推測する。たくさんの片付け本を読んでみても書いてあることを鵜呑みにせずに自分で試すなり自分の中でそれなりの理屈をつけ、その片付け方法を理解しなければ片付かないというようなことが書いてある。これが捨てる理由を書くということに繋がる。つまり、捨てる理由を自分で考えることで自分なりの捨てる基準がもて、その基準を書くことで明確に、そして反復することでそれを自分の頭に刷り込めということを言いたいのだろう。あくまでこれは推測であり、この本を読んで自分なりに解釈した結果なので著者が本当にそう言いたいのかはわからないが。それにしても、

お片づけ本を読めば、そこにいくらでも出ている正しい「答え」。たくさんの「片付けられる人」が、むかしからずっと教えてようとしてくれたことばかりです。でも、それはなぜか、いつも自分の中を通過してしまうだけの言葉でしかありませんでした。勉強と同じで、どんなに簡単なやりかたを教えてもらったとしても、自分が導き出した正解でなければ、身につかないんですね。 とまとめの項目で書かれているが、これじゃ片付け指南本である本書も自分で否定していることにならないだろうか…

一気にやらない

片付けを「祭り」と位置づけて一気に片付けを行い、短期間で見違えるようになった部屋に衝撃を受けることで綺麗な部屋を保とうとするこんまり流と違い、絶対に一気にやるなというのが本書。結局一気に片付けても、部屋を綺麗に保つという習慣が形成されていないから再度リバウンドして汚い部屋に逆戻りしてしまう。なので毎日捨てることで片付けの習慣を身に付ければリバウンドもないであろうというのがこの本の著者の意図らしい。でも「絶対に、一気に片付けないでください」と太字で書かれている次のページで「気が乗ったら一気に片付けましょう」とも言っている。どっちなんだ。著者の言いたいこととしては、1日数個モノを捨てるのは習慣形成の最低限であり、一気にモノを捨てても1日のノルマをちょっと超えたくらいと認識して明日もまたノルマを超えれるようにしておけばOKとのこと。とにかく毎日捨てて習慣形成をさせたいらしい。

氾濫する片付け法

こんまり本との違いとしてもう1つあげられるのは、片付ける順番。本書では「キッチン、風呂、トレイ、洗面所、冷蔵庫」を最初に片付けろと言っている。そしてその次の次に衣服やクローゼットを片付けろと指南している。こんまり流の場合は1番目が衣類である。混乱する。で、調べてみればまた別の片付けアドバイザーは物置やクローゼットから片付けろと言っている。「衣類」と場所別ではなくモノ別に片付けろと言っていたこんまり流ともまたこれも違う。

リビングは後回し! 失敗しない片づけの順番を知る~『一生リバウンドしない! 奇跡の3日片づけ』 【第4回】(石阪 京子) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

いったいどこから手を付ければいいのか。

伊集院光が自身のエッセイの中で、ダイエット本を出さないかという話を持ちかけられたが、その秘訣や方法はどうひねくっても「食うな動け」の5文字から引き伸ばしようがなかったので断った、と書いていたのを覚えている。 結局片付けもダイエットと同じで多分「捨てろ使ったら元に戻せ」ぐらいに集約されるんだろうけど、それができないがために色々回りくどい方法論を指南する本が多く出回っているのではないかと思う。最終的に「食うな動け」に集約されるものをレコーディングダイエットだとかカーヴィーダンスだとかよくわからない方向へ進んでいるのと大差無い気がする。

習慣形成の難しさ

痩せてもその体型を維持する食生活を送ることができなければリバウンドをする。片付けてもモノが散らかったりモノが増えてしまえばまた元の部屋に戻る。習慣形成とはそう簡単なものではない。本書でもそれを理解しているのだろう、習慣形成こそが大事として1日数個モノを捨てさせている。が、それをノートにつけなさいというだけで習慣形成に対しての指導が完結しているのはどうなのだろうか。また、捨てたあとモノを片付けるという行為も同じくきれいな部屋を維持するのに大切なのだろうが、その習慣形成についてはお片付けゲームという「使ったものを元に戻せたら勝ち、面倒で元に戻せなかったら負け」という乳幼児くらいしか勝利しても喜ばなそう、もといシンプルなゲームでどうにかしようと指南している。これだけでモノが戻せるようになったという。なんというか、インベーダーゲームが世に出回ったころにインベーダーにハマってゲームセンターに入り浸っていた大人達を想像してしまうというか、この人にスプラトゥーンとか買い与えちゃったら寝る間も惜しんで狂うまでやり続けちゃうじゃないかと無駄な心配をしてしまう。著者の家にWiiUが届かないことを祈るばかりである。

とにかく、習慣形成の大事さを理解しているであろうはずなのに、その習慣を形成するためのメソッドとそれを行う理由付けが弱いのはどうかなと思う。これで出来る人なら多分元から片付いていたのでは…とも思う。

結局どうしたらきれいな部屋を保てるの?

捨てろ使ったら元に戻せ