新しいことを始めるときはインデックス(目次)を作るように心がける

今週からandroidの開発に手をつけ始めた。ちょうど去年の今頃もやっていたのだけど、綺麗サッパリ忘れているのでほとんどはじめから学習しているような感じだ。それでなくとも、androidなんかは新しい機能追加や取り巻く環境がものすごいスピードで進んでいるみたいなので、1年もブランクがあると結構追いつけなくなっている。

前に働いていた会社で「バグで15分つっかかったら誰かに相談しろ」と言われたのを覚えている。結局守れてはいなかったけど。自分は自力でなんとかしようとする癖がものすごくあるし、ある程度計画を立ててあるポイントで躓くと、それを解決するのに意固地になって馬鹿みたいに時間を使ってしまう事がよくある。バグとか障害に対してのみそういう態度じゃなくて、学習するときにもその性格が出てしまう。つまり、例えば入門書を読んでも全て理解しようとするし、「これはおまじないみたいなもんです」みたいな記述を見かけるとそのおまじないの詳細を調べようとしてしまう。結果馬鹿みたいに時間がかかる。全体を見通してのペース配分が出来ないというか視野が狭すぎて目の前の問題にしか対処する力が無いというか。

とにかくそういう性格はわかっているので、今は出来る限りあまり覚えたり踏み込まないように心がけている。入門書を読んで「これはおまじないみたいなもんです」という記述に出会っても結局調べるけど、それがどういうものなのか一言で表せるレベルに調べようと抑えている。全てが上手くいってるわけじゃないけど…。

分からないものを分からないまま放っておいたりその学ぼうとしているものがどれほどまでに学ぶべきことを知らなければレベルアップは見込めないんじゃないかと思うし、かと言って入門者が1から100まで全てを知ろうとするのは無理がある。結局どのくらいがちょうどいいんだろうと考えると、目次のような、一言で表せるようなものがある程度無いといけないんじゃないのかと考える。 目録の詳細については都度調べることでいいとして、まず最初はそれがどういうものなのか一言で簡潔に言い表せる程度に理解してれば十分かつ問題にぶち当たったときも解決が早いのではないのかななんて思っている。

ので、出来る限りそのインデックスを増やしておこうと思っていたけれども、今度はそのインデックスを作るだけで馬鹿みたいに時間がかかっちゃうので、それはそれでまた時間配分をどうするのか決めるべきになるが、15分とかそういう時間単位を設けるのはそれに対して良い解決方法だ。15分とかそれくらいで分からなければ多分初心者が入り込むべき話題じゃないと割り切れるし。時間と相談しながら全体像がどれくらいなのかを見定めなければならない。

夜に一人で出歩くことはどう捉えられているのか?

昼間に作業をすると集中力を使い果たしちゃって夜は何もできなくなるんだけど、この何も出来ない無駄な時間どうしたら活用できるだろう…と昨日書いてみたら「ランニングかなんかすれば?」というコメントを頂いた。

自分自身走るのは嫌いじゃないしむしろ長距離走なんかは得意な方だし、日頃引きこもっているので運動不足の解消にそうするのは良いと思う。実際働いていた頃は家に帰ってから寝る2時間位前に走っていい感じに肉体的な疲労も感じたところでシャワーを浴びて眠りにつくという方法をとっていた時期があってそれも上手くいっていたので経験的にもそれはいい選択肢の1つだとはわかっているが、今はやろうとは思わない。何故かと言うと場所が違うから。働いていた時は東京にいたが、今はド田舎だから。

東京で夜中に一人で出歩くこと

東京と言っても八王子らへんに住んでいたので、そこまで夜中に出歩く人は多くない。それでも終電のある1時位までは駅周りは多少は人がいるし、コンビニの近くなんかにも人通りはあった。同じく夜中にランニングしている人もいた。車の通りもそこそこあるし、街灯も信号も自販機もコンビニも多くある。昼間と比べて危機感とか人目とかを気にすることはそう変わらなかった。

ド田舎で夜中に一人で出歩くこと

最寄りの自販機まで徒歩15分、最寄りのコンビニまで徒歩1時間、電車は早くて1時間に1本で終電は22時というくらいの田舎だとそうはいかない。街灯は200~300mに1本あるレベルで他に光というと月明かりしかないので、慣れでそんなに感じてなかったけど人によってはかなり暗くて怖いかもしれない。大学へ行くのに上京するまでその暗い中を歩いていたり土地勘がかなりある分、歩いていて危機感はあまり感じない。 が、問題は人目。1ヶ月くらい前だろうか、19時位にコーヒーを買いに歩いていたところでその近くに住んでる人に出くわし「ヒッ」と声をあげられた。自分も驚いたし軽くショックを受けたけど、よくよく考えればそんな時間でも夜に出歩く人はいないので、そのリアクションは何もおかしくない。

そもそも田舎で歩かない

そもそも田舎で歩く人間はあまりいない。いても免許をもっていない小学生・中学生・高校生くらいなもの。いい歳した大人は車で行動する。別に夜でなくても昼でも田舎の人はあまり外を出歩かない。コーヒー買いに行くとかコンビニに行くとかちょっとした行動すら数十分単位で時間を使うので、行動手段はそりゃ車になるし外出頻度も低くなる。学生の登校時間である朝や下校時間の夕方は多少人通りがあるけど、昼間に歩いている人なんてほとんどいない。学生は学校に行ってていい歳した人間は働いているはずの時間帯である昼間に散歩とかすると凄く目立つ。お前こんな時間にナニしてるんだと。というわけで昼ですら怪しい人物と認識されかねないので夜なんかもってのほかだったりする。

都会でも「不審者」だったのか?

というわけで田舎で夜に出歩くと不審者認定待った無しなので、あまり夜に外出する気にはならない。 が、ここで思うのは別に都会でも*1実は不審者として捉えられていたのではないのか?ということ。 「小学校から聞こえてくる子どもたちの声がうるさい」とか「公園で遊ぶ子どもたちがうるさい」みたいなよく分かんない意見をネットの記事なんかで目にしたことはあるのだけれど、その意見の良し悪しは別としても、自分の周りの環境を快適にしたいとかそういう意識があって自分の家の周りに注意を払っているからこそ出てくる意見だ。田舎だと目立ってしまうがために人目を気にして出歩くのが憚られているのだけども、都会に住んでいる人だって当然自分の家の周りに対しては注意を払っている訳だ。となると都会でランニングしていた自分の姿はそういう近隣の人から見たら「毎晩22時~23時くらいにハァハァと息を荒立てながら家の近くをうろつく変態がいる」と認識されていたんだろうかと今更ながら思ってしまう。

上述のような夜になると超暗くなるところで育ったために、夜中に出歩いたりランニングする事に対してはそんなに恐怖感は感じていなかったし、走れればどこだっていいだろうと考えていたのでわざわざ走るためにジムに行くなんてことは全然考えていなかった。多くは近くの河原を走っていたけど、気分によっては別のコース(住宅が近くにある大きい道路沿いなど)を走っていた。皇居ランナーに対しても「別に毎日のワークアウトとして走るんなら家の周り走ったって同じだろ、わざわざ皇居に行って『自分は走ってトレーニングしてますよ、自分磨きしてますよ』アピールしてんじゃねえ、ランニング中に捻挫しろ」と思っていたが、皇居の周りなら一般人の家は無いし、ランニングしてるところを他人に見られたところでランナーとして認識されるので不審者と思われにくいし、ワークアウト目的なら皇居の周りやジムで走っていたほうがいいんじゃないかとも思うようになった。まぁまだちょっと捻挫しろとは思っているけど。

とにかく田舎であろうと都会であろうと、夜中に出歩くのはどう見られているのだろう?やっぱり不審者でしかないのだろうか?

*1:八王子は都会なのか?という意見は聞きません、駅近くにスタバやマクドナルドがあれば都会なんです

夜の時間の使い方に困る

朝起きてから2時間位はシャワー浴びたり朝ご飯食べたり散歩したりして眠気を覚ます。 それからプログラミングを始めて3,4時間、昼休憩を1時間位挟んでまた午後から作業開始。そして晩ごはん。晩ごはんの後も集中力が残っていれば何かする。大体作業している時間は1日7,8時間くらい。というかそれくらいが通常時の作業時間の限界っぽい。それ以上は頭が働かなくて何も手につかなくなるし、そんな状態で何かしても後々ダメな影響を与えてしまうのでそれ以上はしたくない。

そうなると夜の数時間は何も出来なくなる。読書とか頭を使う作業はできない。映画とかも見てストーリー把握するのに集中力を使うし、見るならそれを余すところ無く理解し堪能したいというタイプの貧乏性なのであまり見たくない。ゲームはやるにしてもciv5のような戦略系ゲームくらいしか今のところやる気にならないのでそれも集中力不足でのめり込めない。もっと簡単なアクションゲームなら手を動かすことで集中力も少しは回復するのでは…?と思って3DSマリオブラザーズ3を買ってみたけど、全然簡単じゃなくなってて自分の老いを感じて泣けてきたのでダメだった。*1

結局音楽聴きながらボーッとするかtumblrをボーッと眺めるかくらいしかしていない。tumblrは文字をある程度は読むものの、ほとんど頭に入ってないような状態。ただ読んでそれらの文字列が頭の中を通過するだけというような、そこからまるで意味を汲み取れないというような感じで、流し読みというか流し見しているような状態。

どうにもこの数時間がもったいなくて有効活用したいとは思っているのだけど、うまくいかない。なんかうまく時間を活用できる方法は無いものだろうか…

*1:自分が老いているんじゃなくて、3DSの操作性が悪いせいだと必死に自分に言い聞かせている。

「やる気」という言葉を使ってる時点で負けてるのかもしれない

やる気がでない。とにかく出ない。
やればなんとかなるのはわかっている。なんでも良いから何か作業をし始めると脳の側坐核という部分が刺激されて、そのおかげでやる気が出始めるというやる気スイッチみたいなのが科学的にもあることがわかっているというのも知っているし、ものすごく嫌で嫌でしょうがないことでもいざ踏ん切りをつけてやり始めてみるとやる気が出てきてスラスラ出来るようになってあんなに嫌だったことがやってみると何でも無かったみたいな感じになるという自分の経験的な知識からもわかっている。
が、やりたくないことはいつもやりたくない。色々こなさなければならないタスクは山積みなんだけど、やる気がでない。ゲームとかしたくなる。毎日決まった時間に寝起きしようと思っているのだけど、朝目覚ましが鳴ると起きたくなくなってどうしようもなくなる。

今思うとよくこんな人間が小中高合わせて12年間も学校に行けていたものだなと思う。遅刻した日や仮病を使った日や本当に風邪とかひいた日もあったけど、それらは合わせても12年間の約4000日の内100日もなかったんじゃないかと思う。あのころは何でちゃんと時間通りに起きて学校に行けていたのか不思議でならない。よく宿題や予習もあまり忘れること無くこなせていたのか不思議でならない。多分その時も面倒だとは思っていたのだろうけど、今みたいに実際に手を付けられなくなるほどではなかったはずだ。あの時の自分にあってどうやって起きていたのか問いただしたい。

何で今やその時の面影もなくやる気がでないのかと考えてみたが、思ったのは「やる気」という言葉を使ってるからなんじゃないかということ。虹は7色だと日本では捉えられているが、アメリカでは虹は6色と捉えられていて、アフリカの何処かの部族じゃ3色としか捉えられていない、みたいな話で、現象があってそれに言葉をつけるのではなく、言葉があってその言葉の捉えようで現象の認識が変わってくるみたいな。「やる気」という言葉はやるという選択肢とやらないという選択肢の存在を前提としている。「やる気」というものがニュートラルな状態だったとしても、それをニュートラルだと位置づけてしまえば、そうでない場合、「ハイ」な状態と「ロー」な状態があることになる。気分なのだからアゲアゲな時もあればダダ下がりなときもある。とにかく、モチベーションとかやる気とか、上がり下がりのあるものだったり幾つかの状態を持ちうるものと認識してしまったら、もうその時点で「ハイ」な状態と「ロー」な状態の選択肢が自分の中に出来てしまうんじゃないかと思う。もっと、空気のようなあって当然みたいなものとして認識しなきゃいけないような気がする。やる気云々以前にやることはウダウダ考えた末に手をだすものではなく、何も考えずに手をつけるべきものという位のものとして考えなきゃいけないのかもしれない。

意味とか理由とか目的を求めちゃいけないタイプの問題

「これ、やってて意味あるの?」みたいなことを考えることがよくある。
目的や目標があるからこそ行動に意味が生じる。その目的により良くたどり着くために、その行動に理由をつけてこそそれが「意味」になる。プログラミングやらデザインとか勉強してて、これ何の意味あるんだろうか?と考えてしまう。自分なりの理由は金儲けのためだ。お金がないと生きていけない。生きてるだけでも、毎日寝てるだけでも保険料とか国民年金とか食費とかかかる。生きるだけでお金がかかる。お金を儲けてどうするのか。別に億万長者になりたいわけでもない。毎日うまいもの食べて暮らしたいわけでもない。欲しいものがあるとかそういうわけでもない。無ければ無いでまぁいいか、みたいな気分。じゃあ何でお金を稼がなきゃいけないのか、というか何で生きてんのか、というところにたどり着く。自分でもわからない。じゃあ死ねばいいじゃん、ということになるし自分でも「チャンスが有れば死にたい」くらいのスタンスでいたいと思ってはいるけども、やっぱり事そうなると痛いのやだし苦しいのもやだし怖いしなぁ…という気分になる。

楽しいことが今まで無かったわけではない。ものすごく楽しいことは多くあったが、それ以上に嫌なことがたくさんある。生きてて嫌なことがたくさんある。その多くある嫌なことを乗り越えてまで楽しい経験をしたいかというと、そうでもない。その楽しいことが、それに至るまでにある数多くの嫌なことを補って余りあるような快感を与えてくれるとわかっていてもそう魅力的には思えない。嫌なことから逃げちゃダメだ、みたいな言説を見ても、逃げた先にあるものと勇気を持って立ち向かっていった先にあるものの違いがよく分からない。いや、違いはわかるけども、それらに辿り着く意味はあんのかみたいなことを思ってしまう。嫌なことの嵐の中で立ち向かえるだけの気力を与えてくれるような意味とか目的とかそういうものが無い。そこに意味や目的が無かろうとも生き続けて嫌なことと向き合う覚悟も、スパッと死んで一切をそれっきり何も無かったことにしてしまう覚悟も、どちらもない中途半端な落伍者でしかない。

生きる目的を持ってる人のほうが多分少ないだろう。目的があったとしてもそれが達成された時に、目的達成したのでもう生きる意味ありません死にます、って人もいないと思う。その目的は生きる上での目的が(自覚的か無自覚かはわからないが)複数あってそのうちの1つだったりするのかもしれない。生きることに対して目的を据えたところで、その自覚的である目的というのはただのマイルストーンというか通過点でしかないのかもしれない。

とか何とかつらつら考えてはみるが、結局は結論が出ない。当然のことではある。何千年にもわたって頭のいい人達が考え答えを出しあぐねてきた問題を、そこら辺の無職が数日でどうにか出来るはずがない。生きる目的とか意味とか何なのか、自分なりの答えは出たとしても、それはものすごく浅はかな考えでしかなくて、結局は答えとして、自分の中での生きる目的とか意味としての役割を果たせないようなものにしかなりえない。

今は一応生きてるので惰性的に生き続けると思う。けど生きる限りは楽しいこともあれば嫌なこともある。生きるという非常に精神的なエネルギーを使う行動をする上で必要なガソリンとして、生きる意味とか目的を据えようとはしてみたが、やっぱり無理っぽい。「こういうもんだから仕方ない」とある程度の思考停止をしないと、もう本当に全く動けなくなるだろう。こういう類の問題はそう簡単に答えが出るものでもないし、というか多分答えなんてないし、変に考えすぎてしまうと今までやってきたことって何だったのかとかこれからすることって何のためなんだと思ってしまって足が止まってしまうので、もう考えないほうがいいのかもしれない。「わからん」の一言で終わらせてもうそれ以上踏み込まないほうがいいのかもしれない。

基準を作るのって難しい

webデザインのために色々なサイトを見てる。
自分の今の感覚だけでシコシコ作っても、それがかっこよくなることって殆ど無いだろうな、と思うので色々なものを参考にしたいと思ったから。
かっこいいのもあれば、これでよくOKが出たな…と思うようなダサいデザインも多くある。流行に乗れてなくて一昔前なら評価されてたんだろうけど、今見るとダサいな…みたいなサイトもある。たくさんありすぎて何が何だか分からない。

自分にとって、webデザインの役割は目を引くこととかじゃなくてプロダクトの情報を出来る限り効果的に伝えることだと思っているんだけど、こうたくさんありすぎるとやっぱりかっこいいものとか派手さで目を引くものに興味を引かれがちになってしまう。

色々見てみるだけじゃなくて、色々見てその1つ1つにこれはどうしてダサいのか、どうしてかっこいいのか、かっこいいけど本当に情報が伝わりやすいデザインなのか、とか色々考えなきゃ意味が無いと思って、サイトのスクリーンショットを撮ってここがすごいとかここが良くないとかコメントをつけてevernoteに保存しているけど、コメントをつけるのもそれはそれで難しいなと思う。何故良かったのか、何故ダメなのかの基準が自分の中にないとかデザインの原理原則を自分の中でまだ理解できてないんだろうなと思う。

ああでもないこうでもないととにかく色々考えなければならないけど、その考えている内に自分の中に出来上がっていく美醜の基準が果たして本当にそれでいいのか、世間の感覚と大幅に違うようなものになっていないのかとかそういう不安もある。基準がダサければ何も参考にせず一人でシコシコ作ってるのとそんなに変わらない。

その辺の基準の作り方というのはどうしたらいいのかなあと悩み続ける。

出来る人と出来ない人の違い

デザインの教室 手を動かして学ぶデザイントレーニング(CDROM付)

デザインの教室 手を動かして学ぶデザイントレーニング(CDROM付)

デザインの勉強をしようと思い立ち、今はこの本を読んでいる。お題が出されてそれをイラストレーターを使いながら自分でデザインしてみるという本。
自分でデザインしてみて、自分で改めて自分のデザインしたものを見ると、下手くそでダサいな…と絶望的な気分になる。
自分で手を動かしてみて分かるが、考えなければならないことが多い。「色は黒、白、グレーの3色のみ。それでこのコピーを使ってハガキ1枚をデザインしてみろ」というようなお題が出てくるんだけど、かなりシンプルで制約が多いように見えてもどこから手をつければいいのかが分からない。かなり集中力と体力を持っていかれる。すごく疲れる。精神的な負担が半端ない。

自分はプログラマーをしていたので、ある程度はプログラミングが分かるつもりではある。自分の扱ったことのないプログラミング言語でwebアプリを作れ、と言われても多分ハガキをデザインする数分の一のパワーで出来るような気がする。webアプリしか作ってこなかったのにandroidアプリを作れ、と命じられた時もこんなに精神的な負担は無かった。なにがこんなに違うんだろうか?と考えてみた。

どこからスタートするかが分かるか分からないか

まずこれをデザインしろ、というお題を渡されても、どこから手をつければいいのかが分からない。他のデザインの本でも「まずは要件を整理しろ」と書いてあったが、それが出来ない。いや、出来るのだけど、要件を整理して見せるものの優先順位は何となく付けられるのだが、それの1番目をどこに配置するかが分からない、決められない。一番目立たせたいものがあるなら真ん中に置け、というのはあながち間違いではないのかもしれないけど、全てがそう簡単にはいかない。とりあえずまず真ん中に置いてみてから後はそれに合わせて決めます、となるとどれも同じで単調になってしまう。 プログラミングの場合だったらどうだろうかと考えてみた。自分の場合、まずは作るものの主機能となる部分が実装可能なものなのかを確認する。その機能だけ抜き出したようなプロトタイプを作ってみる。また、その主機能がもう実装可能だと明らかにわかっている場合はユーザー認証周りから手を付ける。大体今作るべきものってユーザーとデータをどうひもづけるか、というのが主になるのでその軸になる部分を一番最初にやる。これがあるべき姿なのかどうかは分からない。もっといい順序があるだろうが、自分はこうするというのが決まっているので一歩目が出しやすい。そういう風になるように設計しているから、というのもあるのかもしれないが… 何にしても、どういう要素があるのかを全て洗い出して、全ての要素のことを考えた上で、つまりは全体を考えた上でないと一歩目が出せない。

「何故そうしたのか」という論理が組み立てられるか組み立てられないか

一歩目をどう踏み出すかということと絡んでいる。一歩目が出せれば、それに合わせて原理原則などの知識が利用できる。一歩目を基準として原理原則理論を要件の中で当てはめてみれば、二歩目は大体ある程度の数に絞られてくる。理論であったり知識があるのが前提だけれども、そういうものを応用できて二歩目、三歩目が出せるのではないかと考えられる。そもそも一歩目も、全体を見て多々ある要素を全て盛り込んだ時のバランスを考えてる中で知識を適用して踏み出せる。 先の自分のプログラミングの例であれば、主機能のプロトタイプを作るのはそもそも前提条件としてその要件を満たせるかという確認でもあるので、一歩目を踏み出す前の段階。ユーザー周りを作るというのが多くにおいて一歩目となる。それはユーザーとデータとのつながりがメインになるので、ユーザー周りができていないとそれとひもづけるべきデータを作れないからとか、そういう理屈がある。

自分の手札を上手く使えるか使えないか

とは考えてみたところでデザインが出来るようにはならない。そもそも自分の考えが間違っていたというのもあるかもしれないが、知識が圧倒的に欠けているような気がする。デザインに関して色々な理論や原理原則があるのは他の本でも見たのだが、それがどういう力を持っているかどういう場所で使うものなのかは実際に使っていないものが多いため、ちゃんと理解していない。それらの原理原則を1つ1つ実際に使ってみてどういう場所でどういう風に使うものなのかを理解し使いこなせるようになってからでないと、一歩目二歩目を踏みだすための論理として機能しない。最初から全てを使いこなすというのは無理な話だろうから、小さいものからでも1つ1つ自分の手札としていくしかないのだろう。そしてそれを手札とする方法こそが練習なんだろう。

デザインであろうとプログラミングであろうと何であろうと、出来る人は凄いな…と思いつつ今日もイラストレーターと格闘する…