身長190センチ体重120キロのムキムキな黒人になりたい

最近どんな映画やドラマやアニメを見ても、「これ主人公が身長190センチ体重120キロのムキムキな黒人だったらもっと早く色々解決するんじゃないの?」という感想ばかりが浮かぶ。いや、それじゃストーリーの盛り上がりとかめっちゃなくなって物語として全然面白くなくなるからダメなんだけど。でも現実世界だったら絶対に身長190センチ体重120キロのムキムキな黒人は有利だろと思う。

力道山はあんなに体格よくて肉弾戦ならめちゃくちゃ強かったのにも関わらず、ナイフで刺されて死んだ。どんなにムキムキでも銃でヘッドショット一発キメられたら死ぬ。それでも、ヒョロヒョロの中年のおっさんがナイフや銃を持った相手に挑むよりも身長190センチ体重120キロのムキムキな黒人が立ち向かうほうがうまくいく確率は絶対高い。大体現実世界でそんな状況に陥ることもそうないはず。銃社会でも何でもない日本ならば尚更だ。

例えば、格闘技の心得があるボブサップみたいな身長190センチ体重120キロのムキムキな黒人がいるとする。こいつはたまに情緒不安定になる時があるとする。変にプレッシャーかけたり、無理な注文をすると「ぁあ”?」みたいな感じで戦闘態勢に入ってくる。機嫌が悪い時とかは周りのものをぶっ壊したりして、ストレス解消とともに周りに自分はこれだけパワーがあるんだぞと見せつけてきたりするとする。めっちゃ怖い。そういう奴が外注先とか部下にいるとする。そうなった場合、日和ってしまう人間は多いんじゃないかと思う。説教してやろうと思っても、他の普通の人間に対して説教するときよりも、そのメンヘラボブサップに対してはちょっと言葉を選んだりする。ちょっと物腰柔らかな言い方をする人間が多いと思う。別にそのメンヘラボブサップがすぐ暴力に訴えてこなくても、その身長190センチ体重120キロのムキムキなガタイで反抗してきたら、絶対普通の人は恐怖を感じる。自分がメンヘラボブサップ側だったら、やりたい放題とまではいかなくとも、ある程度自分の主張を押し通しやすい気がする。

わたし男に生まれればよかったわ

力ずくで男の思うままにならずにすんだかもしれないだけ

わたし男に生まれればよかったわ

中島みゆき - ファイト!

中島みゆきもこう言っている。力があることは強い。社会的な力はメチャクチャ強いけど、社会的な力に対して恐れを抱くよりも、人間は物理的な力に対して恐れを抱く生活を長い間送ってきた。社会的な力でねじ伏せられても、すぐには死なない。物理的な力でねじ伏せられたほうが死へ辿り着くスピードは早いだろう。その分、物理的な力に対して人間が抱く恐怖は強いはずだ。人間の本能的な部分が、身長190センチ体重120キロのムキムキなやつを敵に回した場合は物理的な力関係的にヤバイぞと無意識に認識していると思う。だから普通は身長190センチ体重120キロのムキムキな黒人に威圧感を感じるはずだ。中島みゆきが身長190センチ体重120キロのムキムキな黒人だったら、この曲は生まれなかっただろう。中島みゆきも身長190センチ体重120キロのムキムキな黒人になりたいと思いながらこの曲を作り、身長190センチ体重120キロのムキムキな黒人になりたいと思いながら歌っているのだろう。わたし身長190センチ体重120キロのムキムキな黒人に生まれればよかったわ。

答えがあると思っている

最近7DaysToDieというゲームにハマっている。クラフト系のゲーム。マインクラフトみたいなの。ゲーム中のあらゆるものが破壊可能で、破壊して得た素材を使って色んな物をクラフトする。木とか草とか石とかから道具を作って、その道具で建物の基礎となるブロックを作って…みたいなことをして、自分の思い通りの家とか拠点を作る。ただ、これがマインクラフトとかと違うのが、ゾンビが居るということ。昼間もそこら辺をゾンビがウロウロしてるのでゾンビから逃げたり戦ったりしないといけない。しかも夜になるとゾンビは活性化して超強力になってプレイヤーがどこに居るかを察知する能力も敏感になるので、殺される確率がグンと上がる。なので夜は下手に動いてゾンビに存在を気づかれてぶっ殺されないように、作りかけの家の片隅でカタカタ震えながら夜が明けるのを待つ、みたいなことをしないといけない。しかも7日毎に、プレイヤーがどこにいてもゾンビがその存在を嗅ぎつけて殺しにやってくるというイベントがある。なので、7日間の内に圧倒的な量で襲い掛かってくるゾンビたちを迎え撃つための拠点を作らなきゃいけない。大体初回は7日目にぶっ殺されるらしい。案の定初回はぶっ殺された。3度目でなんとか7日目を凌いだけど、ゲーム内時間で7日、現実時間でも半日くらいかけてつくった拠点が一晩でゾンビたちに半壊させられるという目にあって涙目になる。そんなことを繰り返し続けるゲーム。

このゲーム、今はPC版しか出ていない。しかもアーリーアクセス。アーリーアクセスとは、完成してない状態で、とりあえずは遊べるような開発途中の状態でリリースしていること。なのでまだまだバグも結構あるし、仕様もコロコロ変わる。結構なスピードでバグとか色々な変更が現在進行形で行われている。

ゲームの開発元も海外なので、日本語情報もそこまで多くはない。ある程度はwikiとしてまとめられているけど、何しろ結構なスピードでバージョンがあがって仕様も変わるので、wikiの情報も追いついてないことが多々ある。とにかくクラフト系だけに出来ることは沢山あるのだけれど、その分よくわからんところもたくさんある。

これどうなってんだ…と不思議に思ってちょっと調べてみてもよく分からんことは2chで聞いている。とにかく聞きまくっている。当然全部が全部答えて貰えるわけではない。絶賛開発中修正中のゲームなので、開発元ですら何で起こるのかよく分からない現象とかもあるはず。というかある。そういう中でプレイヤーに聞こうとしているという姿勢が何かおかしいんじゃないかと思った。

何かよく分からない挙動があって、これ何?って聞けば誰かが答えてくれる、または教えてくれなくても答えがある、と思っているフシがある。なんというか自分はそういうところがある。前にも書いたような、「曖昧さ耐性」というものが低い気がする。万物が白黒はっきりしていて、何事にも正しい答えがあると思っているところがある。答えなんてないという曖昧な状態に対しての許容さが低い。何に対しても何かしらの定石的な答えがあると思っているような気がする。誰もが分かるわけでもないし、回答をもらえたとしてもそれが本当に正しいかどうかは分からない。その回答をした人間の捉え方から導き出した解釈という感じなんだろうけど、とにかくそういうものを求めてしまう。

求めてはいけない、となるとまた極端だけど、どの程度それを求めるべきなんだろうか、と考えてしまう。そのバランスにも適正値という「答え」があるんじゃないかと思ってしまう。延々と、それっぽいものを求めてしまう。どういうスタンスで行けばいいのかよく分からない。よく分からない、というスタンスで居るのが一番いいのかもしれない。よく分からない。

お薬手帳

4月からお薬手帳を持参しないとエライことになるとかならないとか。いや、エライことにはならないけど。まぁそれはそれとして、「お薬手帳」という言葉が面白い。その名称自体に「お」が入ってる。美化語の「お」だと思う。「おトイレ」みたいな感じの「お」だと思う。それ込みで名称になってるのが面白い。こう、物凄く口の悪い人がいて、例えば「トイレにいく」という表現も口の悪い人とかなら「便所に行く」みたいな感じで言うだろう。「トイレにいく」でも違和感はない。でも、いきなり「おトイレに行ってくる」とは言わない。トイレ我慢しすぎて頭おかしくなったのかと思われたりするだろう。とにかく、そういう人口の悪い人というかあまり美化語や丁寧語を使わないようなぶっきらぼうな人でも、お薬手帳のことを呼ぶ時は「お薬手帳」と呼ぶんだと思うと面白い。「薬手帳」と単純に言われてもピンと来ない。「お薬手帳」と言われれば、ああ、あれだとすぐにわかるが、「薬手帳」と言われても一瞬何のことかわからなくなるだろう。だから「お薬手帳」と言う他ない。プロレスラーの蝶野のような、明らかにヒールっぽい人でも「お薬手帳」というんだと思うとちょっとかわいいし面白い。逆にそこを頑固に「薬手帳」と言い出したらみみっちい感じがする。どこまで「お」をつけたくないんだって感じがする。「ほら、あれだよ、あるだろ、今飲んでる薬を管理する手帳がよ…」みたいなフォローをいちいち入れながら頑なに「お薬手帳」と言わなかったら言わなかったで、物凄くみみっちい。でも、いきなり「お」なんてつけはじめて「お薬手帳」なんて言葉を口にしたら、なんかギャップを大いに感じて面白く思える。なんか、そんな感じ。

自分を責めすぎるのは、自惚れと贖罪のため

この本を読んだ。この著者の本は他にも読んだことがある。基本的にはこの人の仮説は、農耕の発明以前旧石器時代に培われた脳の機能の影響が今も色濃く残っていて、それがここ数千年で急速に発達した社会に対応できないことがあるために心が折れることがあるんだよ、みたいな感じ。石持ってウホウホ言いながらそこら辺に落ちてるドングリとか虫食べてたまに熊とか猛獣に襲われたりしていた時代が長く続き、その間にその猛獣に襲われた時とか食べ物が十分にあるか分からん時代に備わった危機管理能力が今の社会でも過剰に出てしまうアンバランスさが問題になっているというのが根底にある。で、それをある程度踏まえたうえでどういうテクニックなり心の持ちようでのり切ろうか、というのが本に書いてある。その仮説が本当かどうかは分からないけど、説得力はある。

で、この本読んでてウッと思ったのが、自責傾向にある人の心の中を言ってる部分。この人に言わせると、自分の責任だと考えるのは究極のポジティブシンキングとのこと。どういうことかと言うと、人は自分の責任だと思えば、何かしら行動を起こして事態の収束に当たろうとする。またはそう出来るようなことを考える。つまりそれは自分が何か行動を起こすことで、事態を変える可能性が大いにあると考えているからだ、ということ。なるほどと思った。地震が起こって、自分のせいだ…と思う人はいない。アメリカの地震発生装置が起こしたんだ!みたいな陰謀論を唱える人は、旧石器時代からかなり違うベクトルへ進化した人たちなので、この仮説にはあてはまらないだろうけど、何にしても、そういう天災の類それ自体に自分の責任を感じる人はいない。自分じゃどうしようも出来ないのはわかりきっている。地震とかは極端かもしれないけど、そのスケールを段々小さくしていって、あの仕事がうまくいかなかったのは…みたいに考える人は多い。自分もそういう考え方をしてしまう。自分があの時ああしておけば…みたいなことを考えてもしょうがないし、実際そうしてて万事うまく行ったのかどうか、そのifは分からない。そもそも自分にその時何かしらのスキルがあれば乗り切れたのか、それ自体がよくよく考えると疑わしいところがある。

何かが失敗したとして、その失敗したものの関係者のうち、ある人間だけに100%責任があり、他の人間は0%ということはない。10:0の割合でどうにかなることなんて世の中殆ど無いと思う。誰もが責任の一翼を担っている。それを、自分の行動によって変えることができたんだと思い込む傾向がある人は、万能感がありすぎるというか自惚れているのかもしれない、なんて思った。責任の一翼は担っているがゆえに不安や罪悪感が生まれる。それらから逃れたいがために、それらをある程度背負いながらも生きていくこと自体に罪悪感を感じるため、その一種の贖罪として自責に陥るのかもしれない。

生きてる上で自分がどう動いたってどうしようもないものは沢山ある。自分の一切の責任を認めないのもどうかと思うが、ある程度の罪悪感や不安を抱える覚悟をしながら、そのうえで自分の行動とか責任範囲はどれくらいなんだと線引していかないといけない。難しい。

個性的じゃないとどうなるのか?

一昔前は個性個性言われてたけど、最近はとんと聞かなくなった。単純にそういうのを聞かないようにしてるだけなのかもしれない。単純にインプットの量が少なくなっただけだからなのかもしれないけど。

なんにしても、脅迫的なくらいに個性を持てと言われていた時があった。で、実際みんな個性的になったんだろうか。自分はどうだろうか。無職って個性的なのか。多分違う。いや、絶対違う。自分じゃなくても、働いてる人でもお世辞にもそう物凄く目立つって感じじゃない人はたくさんいる。世の中の多くの人は、それらの人がイメージするような奇抜なことをしてメチャクチャに目立ったり物凄く外見が良かったりするわけでもない、つまり個性的でない人だと思う。

結局多くの人が無個性になってどうなったんだろうか。無個性だとどうなるのか?死ぬのか?いや、死んではいない。職につけないのか?いや、そうでもなさそう。むしろ普通の企業ならマニュアル化を推し進めるだろうし、それは無個性化を推し進めているのと同じじゃないか。職につけないわけでもない。友だちがいて恋人がいて結婚して子供がいたりしてなんて人は多くいる。

じゃあなんだったんだ?個性ってなんだったんだ?それを獲得しないと、何が失われると思われていたのか?なんだかよく分からない。

「どんな人間にも取り柄はある」という幻想

最後に褒められたのはいつだったろうか、と考えてみてもあまり思い出せない。あまりというかほぼ思い出せない。ほぼというか全く思い出せない。今まで生きてきて褒められなかった訳じゃないはずなのに。1つだけ思い出せるのは中学校の時のこと。家庭科の調理実習で、「ホットケーキ裏っ返すのうまいね!」と言われたことくらい。「ホットケーキを裏っ返す職人になればいいじゃん!」みたいなことを言われたのも覚えている。無職の身としては、そんな職業あったら今すぐ応募したい。いや、やっぱりしたくない。ホットケーキを裏っ返す瞬間にのみ能力を発揮してもらうべくそのポストを用意するなんて、その瞬間に相当なプレッシャーがかかるだろう。世界中のセレブたちが集まる中でエンターテイメントパフォーマンスとしてホットケーキを裏っ返す、みたいなことをしないとそれだけでは食っていけないだろう。まぁ何にしても、自分で覚えている「褒められたこと」なんてそれくらいだ。

「どんな人間にも取り柄はある」みたいな言説が嫌いだ。嫌いというか怖い。だって、裏を返せば「本当に何も取り柄の無いやつは人間じゃない」ということだろう。自分の取り柄とか長所なんて、全く思いつかない。取り柄って何なんだろう。「どんな人間にも取り柄はある」という言葉の奥にあるのは、誰だって長所があれば短所もあるよということなんだろうが、長所が思いつかない。となると、じゃあ自分は一体…みたいな気分になる。長所も短所も表裏一体。例えば自己中心的な奴はものすごく良い感じに言い換えれば「億すことなく自分のスタンスを明確に誇示できる人」となる。どちらも嘘ではないし真実をいくらか含んでいる。それがどの程度「長所足り得る」か、その長所を取り柄として扱えるかはわからないけど。自分は短所がたくさんある。書き出してテキストファイルにしたらdropboxの容量いっぱいになるくらいにある。が、それらを良い感じに言い換えることができても、それが長所足り得るくらいに受け入れられるものなのだろうか、取り柄として言えるかと思うと、ノーだ。

自分で見つけることは出来なくても、褒められることを通して何かしら自分のいいところを発見できたのではないかとも思うが、やっぱりあまり褒められたことを思い出せない。どうにかひねくりだして、ああ、そういえばあの仕事の時こう褒められたのは思い出せるな…ということはいくつかあるけども、ただそれが本当に自分の取り柄となりうるのかと思うと疑問だ。自分としてはそう価値のあるとも思えないことを褒められたという感じがあるので、リップサービスだったんじゃないかと疑わしい。それが褒めた側の人間から見て褒めるべき事実に見えていたのだとしても、自分にはそうは見えない。外的評価と内的評価が一切噛み合ってない。そう考えると、唯一それがある程度噛みあうというかそれを受け入れられたのがホットケーキを裏っ返せることだったんじゃないかと思う。ただ、他の人達が自分の取り柄は○○の資格を持っていてその資格と☓☓の知識を組み合わせて活かせることです、みたいなことを言う横で、「自分の取り柄はホットケーキをうまく裏っ返せることであります!」とか言ってたらイタさ大爆発だ。言い訳にしてもなんかもっとマシなのあるだろ…。

じゃあ自分が好きなことを取り柄として設定してしまえばいいじゃんというのも、またそれはそれで問題がありそうな気がする。取り柄であるということは、それがそれなりのレベルに達していて欲しいというのが他の人からの願いであろう。人間関係においてそれが元で齟齬が発生したりしそうな気がする。単語とかよく分からないけどアルファベット全部言えるしなんかアルファベットの形が好きだから英語が取り柄です!とか言っても、周りは「ああ、ある程度英語の読み書き出来るんだな」と受け取られたら、その後に悲劇が起こることは想像に難くない。外的評価と内的評価が合致することなんて絶対ないけど、ある程度同じくらいの水準でないとそれはやっぱり取り柄足り得ないんじゃないか。

トリビアの泉というテレビ番組があった。しょうもないムダ知識を紹介していく番組。アラサー以上の人は見たことあると思う。自分もあの番組が好きでよく見ていた。毎週のように見ていたのに、その知識は殆ど覚えていない。が、1つだけ明確に覚えているものがある。ナンバーワンとオンリーワン、どっちのほうがいいのか、というのを検証するという企画。検証といっても、当時流行った「世界に一つだけの花」の作詞をした槇原敬之に、正直どっちのが良いですか?と聞くだけだったけど。ご存知「世界に一つだけの花」はみんな違ってみんな良い、ナンバーワンという考え方もあるけど、オンリーワンという考え方もあるよ、個性が大事だよというような事が歌詞に乗せられている。で、当の槇原敬之はその質問をぶつけられて1時間以上悩んだ挙句「ナンバーワンのほうがいいですね」と答えた。それを見てスタジオ大爆笑。見ている自分は1ミリたりとも笑えなかった。何が面白いのか、どこが笑えるポイントなのか全くわからなかった。個性とかオンリーワンなんて言葉が持て囃されてそれらを持てなんて誰もが言ってた時だった。別にその答えが個性を否定してるわけでもないけど、そりゃやっぱ一番であるほうがイイよねという答えに「やっぱそうだよね…」という感想しか持っていなかった。

「2位じゃダメなんでしょうか?」という一発ギャグがある。いや、ギャグじゃないけど。いや、あの状況だとギャグと捉えられてもまぁ間違いとは断定できないけど。まぁそんな言葉というか有名な質問がある。これはコンテクストを変えれば有用にも思える。結局、自分の理想が高すぎるから自分を受け入れられないんじゃないか。ほぼ確実に、自分は何においても一番にはなれない。ギネスレコードのわけわかんないチャレンジみたいなものなら一番になれるかもしれないけど、それに価値を見いだせない。そもそも一番とは、どこで一番なのか。世界だったら絶対に無理だ。日本全体でなのか、会社や学校でなのか、クラスやその部署で一番なのか、家族の中で一番なのか。抽象的で曖昧だ。抽象的に曖昧にナンバーワンが良いよねと思っていた自分は、どこに行ってもナンバーワンにはなれないだろう。上には上がいる。家族で一番になっても、部署で一番になっても、より大きな規模になればその上がいることは容易に想像できる。そんな理想の立て方に意味が無い。槇原敬之の答えを笑えなかった自分は、そういう現実との折り合いを付けられなかったから笑えなかったのではないだろうかとも思う。そして、なぜ一番というか順位に変にこだわろうとするのか、そのこだわりが理想に対する思い込みを生み出して、長所も見いだせず、人からのお褒めも受け止められなくなったのではないかと思い始めたりした。どう現実と折り合いをつけるか、どう自分の価値を自分で見いだせるかが取り柄を作れるかの鍵になるんじゃないかと。

とか考えながらGooglePlayミュージックをシャッフルしながら聞いてたら、こんな歌詞の曲が流れてきた。

素敵なあなたを讃えます 私には取り柄なんてないですので

椎名林檎の「モルヒネ」。あんたとんでもない取り柄持ってるやんけ。一生食うに困らないレベルのとんでもない取り柄持ってるやんけ。あんたのその音楽の才能が取り柄に入らなかったら、世界の多くの人間はどういう位置づけになるのか。というか椎名林檎をもってしてここまで言わせる「あなた」はどんな化物だよ。やっぱり自分はド田舎の中学校の小さなクラスで最もホットケーキを裏っ返すことが出来るくらいに思っているだけで十分な気がしてきた。取り柄なんて、クソ喰らえ。

今日の一針、明日の十針

ということわざがあることを知った。意味は

今日なら一針縫えば済むほころびも、明日には大きくなって十針も縫わなければならなくなる。わずかの労を惜しむと後で大変になるというたとえ。 『今日の一針明日の十針(きょうのひとはりあすのとはり)』の意味と定義(全文) - 辞書辞典無料検索JLogos

最近また精神面を強くする的な本を読んでるけど、結局はどれも時間のかかる面倒な回り道をしなければ、強いメンタルの得られる考え方は出来るようにならないんだなぁというのを強く感じる。逆に今までダメな選択ばかりしてきた結果、今一億針くらい縫わなきゃいけないようなことになってるんだろうなぁとも思う。何もしないという一種の選択ばかりをし続けてきたからかもしれない。まぁ今更何が一億針も縫わせる原因となったのか分かったところでどうしようもないので、これからちまちまチクチクと縫い続けなければならないんだろうなと感じる。

去年末くらいまでは朝食後と昼食後に腹ごなしがてら散歩をしていた。が、最近はしなくなった。単純に1月は寒かったし雪もメチャクチャ降ったし道路が凍ってコケるし…と思ってからの事だったのだけれど、今になって果たしてそれは本当の理由だったのかと思う。理由としてはあるんだけども、無意識的に別の理由を自分自身に隠すための、自分自身への言い訳みたいなもんじゃないかと思う。いい歳した人間がジャージ来て真っ昼間にプラプラ歩いてたら変な目で見られるようなところに住んでいるのだ。別に悪い事してる訳じゃないから別にプラプラしててもいいだろとも言えるけど、実際は言えない。なんだか物凄く変な目で見られているような気がしてならない。他に散歩してる人がいるのを見ると何か変な目で見られるんじゃないかと思ってドキッとするし、向こうから車が来ても、車のドライバーに変な目で見られるんじゃないかと思って顔を伏せてしまう。それが散歩をしなくなった本当の理由なんじゃないかと考え始めた。寒いとかなんだとかってのは言い訳で、実際は自意識過剰過ぎるのと、散歩の度にそういうこと考えて脂汗かくのが嫌なんじゃないかと。そしてこれが明日更に九針も縫うハメになる原因じゃないかとも思う。

自分では毎日定時に寝起きして、ちゃんと1日から数日分の作業量の見積もり立てたうえで何か作業をする、というのを心がけていたんだけど、何だか最近になって上手くいかなくなってきた。いくらか時間は経って去年の今よりも多少は良くなってはいるものの、ここ数ヶ月は三歩進んで三歩さがるみたいな感じになっている。なんでだろうと考えてみたけど、お医者さんの世話になってる現状から社会復帰しようと考えた時に、自分の考えていた「社会復帰に向けてその日1日で出来ること」の粒度、つまり今日の一針の粒度が大きかったんじゃないかなと思う。冷静に考えて、散歩もロクにできないような人間が働いてる人間と同じように1日9時間集中して作業するっていうのは何か無理がある感じがする。もちろん出来る日もそこそこあるんだけれども、それより先に散歩ちゃんと出来るようにしたほうが良くない?とも思う。1日9時間働けるけど、外に出られませんじゃ危うさを感じる。1日どれくらい作業するのも散歩するのも同時進行出来るものだから、両方やればいいのだろうけど。ただ、三歩進んで三歩下がってるのは、1日にこなせる作業量は増えたものの、散歩できなくなるくらい自意識過剰っぷりが進行してるという感じなんじゃないか。その自意識過剰っぷりが綻びを生み出して九針プラスで縫わなきゃならないようにしているんじゃないか。今の自分にとっての一針は、散歩できるようにするとかそんなレベルなんじゃないだろうか。

自信は成功体験がキモになる。1回の成功体験じゃ自信持てないなら何度でも成功すればいい。で、それによって出来た小さな自信を次の少し大きなチャレンジに使って、更にそれを成功させることで自信をつけて…というステップを踏まなきゃいけない。自分にとっての今できる最低限のステップはちゃんとやり続けてモノにしなきゃ、そこが綻びになり始めるんだろう。

いつになったら前に進むんだろうか…と思って自分自身にうんざりしながらもやらなきゃどうにもならんので、明日も渋々変な顔をされながら散歩に出る。